これまで最も多くのプロ野球選手を送り出した高校は、PL学園の77人。野球部は2016年夏を最後に休部になったが、現在も2位・横浜の67人を抑えて、トップの座を守りつづけている。そして、プロには行かなかったものの、今も高校野球ファンの間で「あの選手は凄かった」と語り継がれている“伝説のPL戦士”も多数に上る。
2017年8月27日放映のTBSテレビ特番「消えた天才」で紹介されたのが、桑田真澄、清原和博の“KK”と同期だった投手の田口権一だ。
桑田氏の著書「試練が人を磨く 桑田真澄という生き方」(扶桑社文庫)によれば、1983年春、PLに入学し、清原、田口と初めて顔合わせした桑田は、187センチの清原と192センチの田口に圧倒され、「えらいとこに入ってしもたな」と目の前が真っ暗になったという。当時の田口はすでにMAX145キロを計時し、将来のエース候補ナンバーワンだった。
1年夏の大阪大会、上級生にも実力を認められた2人が当然のように背番号を貰ったのに対し、一度は投手失格の烙印を押された桑田も最後の1人としてベンチ入りをはたしたが、「何でお前が」と周囲の風当たりはきつかった。
だが、桑田は公式戦初登板となった4回戦の吹田戦で、見事2安打完封勝利。一方、5回戦の泉州戦で先発デビューの田口は、本塁打を浴び、2回1失点で降板。3回からリリーフした桑田が9回まで投げ切り、田口を1歩リードした。
そして、決勝の桜宮戦、甲子園出場をかけて先発のマウンドに立ったのは、田口だった。
だが、2四球でいきなり1死一、二塁のピンチ。4番打者を投ゴロに打ち取り、2死まで漕ぎつけたが、次打者の打球が右腕を直撃するアクシデントで降板。甲子園優勝メンバーからも外れた田口は、結果的にこの負傷がその後の野球人生に大きく影響を及ぼす。
翌84年のセンバツ、田口は2試合に先発したが、球威、コントロールともベストの状態にほど遠く、その後は外野手や代打での出場が増えていく。KKコンビの活躍で2度目の全国制覇を成し遂げた85年夏も、準決勝の甲西戦で試合の大勢が決まった終盤3イニングを投げたのが唯一の登板だった。