PL卒業後、本田技研で心機一転プロを目指したが、夢を叶えることなく、現役を終えている。
もし、田口がPLのエースになっていたら、桑田は野手に転向していた可能性もあり、“もうひとつのPL”がどんな戦績を残したか、興味は尽きない。
1987年、立浪和義主将(現中日監督)を中心に抜群のチームワークで史上4校目の春夏連覇を成し遂げたPLの4番を打ち、“清原2世”と呼ばれたのが、深瀬猛だ。
同年夏の大阪大会で清原の大会記録5本塁打(当時)に迫る4本塁打を放った深瀬は、甲子園でも2回戦の九州学院戦、3回戦の高岡商戦と2試合連続弾。大会屈指のスラッガーと注目を集めた。
だが、好事魔多し。マルチ安打を記録した準々決勝の習志野戦の7回、けん制球で帰塁した際に右肩を脱臼。連覇を達成した決勝の常総学院戦を欠場する羽目になった。
ケガさえなければ、ドラフトでは、立浪(中日1位)、橋本清(巨人1位)、野村弘(大洋3位)とともに、深瀬もどこかの球団の指名を受けていたかもしれない。
「大学に行って上を目指そう」と気持ちを切り替え、専大に入学した深瀬は、1年春からリーグ戦に出場したが、再び右肩を痛める不運に見舞われ、レギュラーから外れた。
JR東日本入社後もプロへの夢を持ちつづけたが、叶うことなく30歳で現役引退。その後、08年から休部前年の15年まで母校・PLのコーチを務めた。
「松坂大輔と投げ合った男」と注目されながら、テレビ局のアナウンサーという異色の道を選んだのが、98年のエース・上重聡だ。
同年、PLは松坂の横浜と、春は準決勝、夏は準々決勝で対決し、いずれも“事実上の決勝戦”にふさわしい大熱戦になった。
上重は、春は2点リードの8回途中から登板し、逆転負けを喫した悔しさをバネに、夏は4対4の7回からリリーフ。延長17回までの11イニングを松坂と互角に投げ合った。17回に決勝2ランを浴びて敗れたが、「やることはすべてやり尽くしたので、悔いはないです」と充実した表情で甲子園をあとにした。