文化勲章に次ぐ栄誉と位置づけられている文化功労者。昨年、シンガー・ソングライターの松任谷由実さんや将棋棋士の加藤一二三さんらとともに選ばれたのが、千葉大学名誉教授の西川惠子さんだ。「特殊な液体」の構造をオリジナリティーに富んだ実験で明らかにしてきた。「青天の霹靂でびっくりしましたが、地味な基礎研究を評価していただいたことを素直に喜ぼうという気持ちになりました」。74歳。大学が女性に対してきわめて冷たかった時代を生き抜いてきた実験化学者である。(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子)
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――東京大学に入学したのが1968年、その翌年は大学紛争で東大入試がなくなったんですね。
そうなんです。入学して2、3カ月でストライキになって、ほとんど勉強せずにクラス討論に明け暮れていました。ちょっと姿が見えないと「あの人デモに行って捕まっちゃった」なんて言っていた。
――それでも進級できたのですか?
レポートを出せと言われましたね。私たち、学生運動もやったけれど、勉強会もしていたんですよ。自分たちで量子力学の本を輪読し、それをよくわかっている人がまとめて連名のレポートにして、それでみんな単位をもらった。そんな時代でした。
――化学を選んだのはどうしてですか?
高校のころは数学も物理も化学も好きでした。数学では食べられないなと思って、大学に入ってからは化学をやろうと思いましたね。そもそも、どうして理系なのか、という話をしてもいいですか?
――はい、どうぞ。
父は電電公社(現NTT)のエンジニアだったんです。それで、教育のつもりだったのか、私が小学生のころに『科学大観』っていう、今でいえば『ニュートン』みたいなイラストとか写真がいっぱい入った雑誌を毎月買ってくれたんです。それをパラパラっと見ていて、理系のことが好きになりました。
そのころ住んでいたのは静岡県三島市の箱根山の麓で、自然豊かなところ。自然の移ろいを見るのも好きでした。次に移り住んだ清水市の住まいは電電公社の社宅でした。お隣の同い年の女の子のお父さんも電電公社の技術者です。そのお父さんが「この目覚まし時計をあげるから、分解してみたら」と言うので、2人で分解して、ちゃんと元通りに組み立てたこともありました。
――へえ、すごい。機械いじりも得意だったんですね。
周囲にそういう刺激があったということですね。高校はサッカーで有名な清水東高校に入りました。文武両道の高校で、毎年、何人か東大に合格していた。私はそんなつもりはなかったんですけれど、1年生のとき担任の先生に「この調子なら東大に行けるよ」と言われて、だんだんその気になった。ところが落ちてしまった。
早稲田大学には合格したんですけど、家が貧しくて東京の私立大学に行くのは無理でした。ハッキリそう言われたわけではないですが、弟が2人いましたし、無理なことはわかっていた。地元の薬科大学にも受かって、ここは公立で、しかも自宅から通える。でも、私はそこには行きたくなかった。親はここに行かせたいわけですよ。