――薬剤師なら就職にも困らないですしね。
ええ、でも私は嫌で、家出を覚悟で高校の担任に相談したら「応援するから」って。私は体があまり丈夫でなかったので、東京の予備校に行くのは体を壊すから絶対ダメと親に言われ、自宅浪人ならとようやく認めてもらった。
その担任は英語の先生で、私は英語が一番苦手だったので、浪人中はずっとその先生が英語を見てくれました。数学の塾にも行きましたけど、いわゆる予備校には通わず、自宅で勉強して、翌年理Ⅰ(工学部・理学部進学コース)に受かりました。
――それで化学科に進学して、そのまま大学院に進まれたんですね。
無機合成化学が専門の佐佐木行美教授の研究室に入りました。私は合成実験が好きで、合成は有機化学が主流なんですけど、あの臭いが嫌だったので、無機化学へ。佐佐木先生に「合成実験をしたい」と申し出たら、「女性にガスボンベを担がせられますか」と言われた。あのころは、窒素とかアルゴンなどのガスを流して、特殊条件下で新規化合物をつくる実験が主流だったんです。研究室は古い建物の2階にあって、先輩たちは本当にガスボンベを担いで階段を上っているんですよ。確かに私にはできないな、と思った。
佐佐木研にはちょうど単結晶をつくって構造解析をする新しい装置が入ったところでした。それを維持管理するのが助手になられたばかりの小林昭子さん(のちに東大教授)の役目でした。私は小林さんに仕込まれて、この装置を使って構造解析をしました。
――結晶はどうしたんですか?
大がかりな実験でなくてもできるようなものを自分たちでつくりました。それで卒業論文と修士論文を書いて、一応博士課程に入りましたけれど、「口があったら就職したい」と教授に言ったら、学習院大学の実験助手のポストを見つけてくださった。当時、こういうポストはほとんどが公募人事ではありませんでした。採用してくださったのはあと2年くらいで定年退官する先生で、2年後どうなるかわからないから男性だったら絶対行かないですよね。私は潜り込めれば後はなんとかなるだろうと、博士課程には3カ月いただけで飛び出した。
学習院大には物理化学系の研究室は3つあり、とても仲が良かった。私がついた先生は、定年が近いということで村田好正教授に「君が育てていいよ」と私を預けたんです。村田先生は「装置づくりの神様」といわれていた方で、私はいきなり「旋盤をやるから見に来なさい」と言われて、旋盤やフライス盤の使い方を教わり、装置づくりの技術を学びました。研究者の卵として育てていただけたのは運が良かったと思っています。
村田先生たちはこのころ、分子が集合した「凝集系」を調べようと研究会をつくっており、そこに私も連れていってくださった。東大では、単分子一つをきれいに分析する研究が盛んだったんですが、それに飽き足らない人たちがこの「複雑凝集系の研究会」に集まってきた感じでした。
私自身は、村田先生から示されたテーマの中から液体の研究をすることにして、論文がまとまったとき東大に提出して理学博士号をいただきました。