近藤たちは人数が少なかったため、苦戦を強いられる。近藤は傷を負わなかったものの、永倉によれば3度ほど斬られそうになっている。
永倉の場合は手に傷を負った上に、刀が折れて使い物にならなくなってしまった。そのため、志士の刀を奪って戦いを続けた。
近藤によれば、藤堂は鉢巻の額の部分に入れた薄い鉄の板を打ち落とされ、深手を負った。その刀は「ささら」のようになっていたという。周平も槍を切り折られた。離脱した沖田の刀も折れていた。激しい斬り合いだった様子が浮かんでくる。
外に脱出した志士もいたが、近藤が外に配置した谷万太郎の槍に突かれ、逃げることはできなかった。
劣勢の近藤隊は苦戦を強いられたわけだが、縄手通りの捜索が空振りに終わった土方隊が急ぎ駆け付けると、人数の上で優勢となる。
新選組が大勢、一階や二階に押し入ったことで志士たちは次々と捕らえられた。あるいは斬られた。屋外に脱出した者も同じ運命を辿る。
その後、出動が遅れていた会津藩や桑名藩なども駆け付けて、池田屋を十重二十重に囲み始めた。志士たちは脱出する道を完全に断たれ、やがて斬り合いは終った。
捕縛後に斬首された者も含めると、池田屋事件で命を失った者は30人近くにも及んだ。熊本藩士の宮部鼎蔵、長州藩士の吉田稔麿、土佐藩士の望月亀弥太たちである。
もちろん、新選組側にも死傷者が出ている。奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門の3名が池田屋事件での傷が元で命を落とした。
新選組の働きは幕府や会津藩から高く評価された。幕府は会津藩に恩賞として1000両を与えたが、配下の新選組への恩賞については直接割り振っている。幕府が指示した配分に従って、褒美金を配るよう命じたのである。
近藤に30両、土方に23両、沖田・永倉・藤堂たちに20両ずつ、井上源三郎たち11名に17両ずつ、松原忠司たち12名に15両ずつを渡すよう指示した。そのほか、3名に20両を渡すよう指示したが、これは池田屋事件で落命した奥沢たちと推定されている。
幕府だけでなく、会津藩からも褒美が出ている。近藤は三善長道の刀を賜わり、新選組一統は500両を下賜された。これとは別に、負傷者には20両が与えられている。
池田屋事件は新選組の名を一躍天下に知らしめる事件となったが、藩士を殺された長州藩の怒りは当然ながら爆発することになる。
京都が戦場となる日が、刻々と近づいていた。
※週刊朝日ムック『歴史道Vol.28 新選組興亡史』から