幕末、京都の治安を守る特別警察として活躍した新選組。尊攘派の浪士はもちろん、市井の人々からも畏怖された存在だったという。その武名を轟かせた5大事件の舞台裏を追う。
当時、新選組の隊士には病人が多かったため、局長の近藤や副長の土方に率いられて出動した隊士の数は30人ほどであった。近藤はこれを二手に分け、人数の多い方を土方に指揮させた。
事件後に近藤が故郷の武州多摩に送った書簡によれば、池田屋に踏み込んだのは午後十時頃であった。戦いは2時間余りにも及んだ。7名を討ち取り4名に手傷を負わせ、23名を捕らえたという。
近藤は踏み込む前に、数人の隊士を外に残して池田屋の表口と裏庭を固めさせた。表口は三条通りに面し、裏口は高瀬川の舟入に通じていたからだ。いずれも脱出者を防ぐための処置であった。その後、近藤、沖田総司、永倉新八、藤堂平助、近藤の養子・周平の計5名が踏み込んでいる。
池田屋は二階建ての宿屋だった。一階の表口から入った近藤は御用改めであると叫んだため、驚いた池田屋の亭主は志士たちが集まる二階に駆け上がった。御用改めが来たと知らせようとしたのである。
近藤たちが亭主を追って二階に駆け上がると、20人ほどが抜刀してきた。近藤は手向かいすれば容赦なく切り捨てると叫んだが、志士の一人が斬り込んできたため、沖田が斬った。
近藤は一階に下りるよう沖田たちに命じた。数の上では劣勢であることを悟り、一階を戦いの場に選んだのだ。一階には大型の吊り行燈もあり、敵味方の区別をしながら戦えるメリットもあった。
永倉の『文久報国記事』によれば、沖田が病のため早くに離脱してしまい、近藤隊は残りの3名で戦うことを余儀なくされる。近藤周平の名前が入っていない理由は不明である。
志士たちの側だが、二階に残る者もいれば、一階に下りて戦う者もいた。外へ脱出を試みる者もいた。
近藤は一階の奥で二階から下りてきた志士と戦った。永倉は台所から表口の辺りで、藤堂は中庭で戦った。一階は中庭を挟む形で表と奥の空間に分かれており、奥の空間を進んでいくと裏口に突き当たった。