
石塚さんら当事者の思いを実現させたのは、DLJ代表理事を務める仙波由加里さんだ。仙波さんはかつて不妊治療を受ける当事者として研究の道に進んだが、石塚さんをはじめとするAIDで生まれた当事者らと出会い、生まれた人の視点に立つようになる。
「出会った頃、石塚さんが本当にすごく悩んでいたので。私は生まれてくる人のことまで考えて不妊治療を受けたいと思っていただろうか、と考えさせられた。その頃から配偶子提供で生まれてくる人の出自を知る権利について追いかけるようになりました」
■ドナーに求めるのは、あくまで遺伝的な情報
仙波さんは海外生活が長かったこともあり、生殖補助医療をめぐる諸外国の状況にも詳しかった。米国や欧州、豪州におけるドナーリンクの取り組みを石塚さんに最初に知らせたのも仙波さんだった。石塚さんはこう振り返る。
「04年に研究会の場で仙波さんからもらった資料に海外のドナーリンクの事例が書かれているのですが、赤線がたくさん引いてある。私はたぶん当時から『いつかこれをやりたい』と思っていたんですね」
だが、具体的な行動を起こすまでには時間がかかった。石塚さんと仙波さんは、日本でどのようにドナーリンクを実現させるかよく相談していたが、自分たちで団体や仕組みを作るのは容易なことではない。法整備が進み、国がドナーリンクに取り組む可能性に期待したが、国会は動かない。ついに立ち上がったのは仙波さんだった。
「『このままではドナーが死んでしまうかも』と石塚さんが言うようになって、これは急がなければと思いました」
22年春、研究職を離れてDLJの設立準備を始めた。
団体を立ち上げるにあたり、ふたりが真っ先に声をかけたのが、産婦人科医の久慈直昭さんだった。慶応大学病院で長くAIDに関わってきた医師たちのなかで、ドナーの匿名性を見直すことに初めて言及してくれた久慈さんは、関係者らにとって非常に大きな存在だった。久慈さんもかつてはドナー情報の開示に消極的な考えだったが、10年ほど前、AIDで生まれたことを幼いときから告知されて育ち、ドナーとも会ったというオーストラリアの女性に会って考えが変わったと話す。
「その方の話を聞いて、生まれた人がドナーに求めるのはあくまで遺伝的な情報だとわかり、納得しました。決して社会的な『親』を求められるわけではないことを、ドナーの人たちにも知ってもらいたい。彼らが精子提供したことを『よかった』と思ってくれたら嬉しいと思い、今回理事を引き受けることにしました」(久慈さん)