奥歯にものの挟まったような微妙な反応。その後も結局、真相はわかっていない。一方、一躍有名になった大貫氏のもとには、脅迫状や借金の申し込みも届いた。大貫氏は本誌の取材にこう語る。
<「いままでぼく、堅実をモットーにしてきた男ですし、石橋を叩いても渡らないくらいの性格だから、周りでゴチャゴチャいわれても、どうってことないですよ。ここへきて、慌ただしくなって、体重も減りかげんになってますけどね>
一時は変装までして人目を忍んだ大貫氏。大金を拾えたのは、決して偶然ではなかったと語る。
<「常日ごろから、リサイクルというか、ぼくは心がけてるんです。無駄にしないように。そう思って見ると、まだ使える物が、たくさん捨ててあります。人から見ると理解できないかもしれんが、ぼくにはだから自然に(一億円の包みを拾うことが)できたんです」>
この時代、教育現場は混乱に陥っていた。83年3月4日号の記事は、すさまじい校内暴力の実態を浮き彫りにしている。
83年2月15日、東京都町田市の市立中学校の玄関で、英語教師が生徒から罵られた上、靴の泥落とし用の金属製のマットで襲いかかられ、反射的に相手の男子生徒Aを果物ナイフで刺す事件が起きた。世論の受け止め方は、現代からすると意外だ。
<いま、同中には毎日、全国から二、三十通の手紙が舞い込んでいる。全部が刺した●●(原文は実名)に同情し、「ツッパリ生徒はびしびし殴れ」といった内容だそうだ>
事件は、英語教師がAの親分格で「ツッパリ組の一人」だった男子生徒Bをクラブから追放したことがきっかけで起きた。英語教師の言動もBに「やめても行けるクラブはないだろう」と言い放つなど行き過ぎだったようだが、それでも同情が集まったのは、当時の学校が置かれた状況のせいもあるだろう。事件前年の秋からの学校の様子は次のようだったという。
<まず急速に生徒の服装が乱れ始めた。それまで全校で数人だった男子のパーマが、あっという間に二、三十人になった。教室のドアなどが、けっとばされて壊されだし、水道の蛇口がへし曲げられて折れた。授業中の教室からエスケープする生徒が目立ち始めた。