自分が週刊朝日編集部員であることは先述した。少し詳しく書くなら、93年4月に配属された。「皇后叩き」をめぐる記事には直接関わらなかったが、「貧すりゃ鈍する」と書かれた時の編集部の空気は覚えている。高揚感、だったと思う。「週刊朝日」が正面からニュースに向き合った時代だった──と書いたのは、休刊を前にした感傷だ。
■「美智子さまは皇室を救った」
それからほどなく事態が動いた。10月20日、59歳の誕生日を迎えた美智子さまが赤坂御所内で倒れ、言葉を失った。その日に公表された誕生日にあたっての文書には、バッシングについての質問にこう答えていた。
「事実でない報道には、大きな悲しみと戸惑いを覚えます。批判の許されない社会であってはなりませんが、事実に基づかない批判が、繰り返し許される社会であって欲しくはありません」
これを報じた「週刊朝日」11月5日号は、日本テレビで長く皇室報道を担当してきた渡邉みどり文化女子大教授の「まさに身を挺した『反論』だったと思う」というコメントを掲載した。「週刊文春」は11月11日号で一連の記事についてのおわびを掲載した。
渡邉さんのことを、私は何度も取材した。強く印象に残っているのが、配属間もない93年6月18日号だ。陛下と雅子さまの結婚を祝う企画として、渡邉さんと脚本家の橋田壽賀子さんに対談していただいた。
そこで渡邉さんがこう言った。「私は、美智子さまは日本の皇室を救った人と固く信じています。天皇の名のもとに、たくさんの方が戦争で死んでいるのですから」
担当の副編集長が、「昭和天皇の責任をはっきり口にした渡邉さんはすごいジャーナリスト」だと語っていたことをよく覚えている。新聞で宮内庁担当をした人だった。
さて、美智子さまが表紙になった話に戻る。4度目は99年3月5日号、ご成婚40周年記念だった。中振り袖姿の結婚前の美智子さまで、お一人の写真が表紙になったのはこれだけだ。「ほのぼの秘話でつづる美智子皇后物語」と表紙に印刷されている。画家の安野光雅さんによる随筆のことだ。