1959年4月12日増大号
1959年4月12日増大号
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 週刊朝日は美智子さまを幾度となく報じてきた。記事から浮かび上がるのは上皇さまと美智子さまがともに抱く平和への強い願いと、お二人を取り巻く人々の温かい視点だ。美智子さまが表紙になった号とともにその歩みを、コラムニスト・矢部万紀子さんが振り返る。

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 美智子さまが表紙になっている「週刊朝日」を全部読もう。そう思い立ったのは、もちろん「週刊朝日」が休刊になるからだ。編集部がすぐに、全部で7号と教えてくれた。案外少なく感じたが、それはさておき。

 最初は1959(昭和34)年4月12日号。皇太子さま(当時、現在の上皇さま、以下略)との「結婚の儀」(4月10日)を直前に控えた正田美智子さんの絵で、小磯良平画伯による横顔だった。

 トップは「ヒツギノミコの御結婚」という記事。こう始まる。「『ヒツギノミコハアレマシヌ』そのころ小学生だった人々は、こんな文句がくり返し出てくる唱歌を歌ったはずである。多分なんのことか意味は、はっきりしないままに……」

 書いた記者がその世代で、主たる読者はそれ以上の世代なのだろう。唱歌についてこれ以上の説明がなく、現在の天皇陛下世代の私にはわからない。調べたところ、「皇太子殿下御誕生奉祝歌」だった。サビ(?)が「日嗣ノ皇子ハ生レマシヌ」。

 そこから、皇太子さまの25年とその時代を振り返る。生まれたのは日本が国際連盟を脱退した33(昭和8)年、戦前の宮廷記事に必ずついた「もれ承るところによれば」という表現、皇太子さまも美智子さんもした疎開、バイニング夫人から学んだ英語などが書かれる。大学生になった皇太子さまの“孤独”を経て、最後にやっと「テニスコートの恋」。読者のほうが詳しいだろうと断り、17行だけの記述だった。

 この記事の意図は、リードが端的に表している。祝福の言葉から入り、こう続く。「私たち国民の感慨は深いものがあります。なぜなら、ヒツギノミコが一人の平民の娘と結婚されるのですから……。敗戦は悲しい現実でしたが、いろいろのものを生み出しました」

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