巨人時代の平松一宏(OP写真通信社)
巨人時代の平松一宏(OP写真通信社)
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 日本ハムからソフトバンクFA移籍した近藤健介の人的補償選手に田中正義が指名された。FA制導入後、34人目になるが、球団別に見ると、やはり巨人が14人とダントツで多い(2位はソフトバンクの5人)。14人はどんな顔ぶれだったのか、年代順に振り返ってみよう。

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 第1号は1995年オフ、河野博文の人的補償で日本ハムに移籍した川辺忠義だ。

 ドラフト2位で巨人入りした川辺だったが、6年間で1軍登板ゼロ。だが、日本ハム移籍が野球人生を変えた。1年目に17試合登板し、5月19日のロッテ戦でうれしいプロ初勝利。現役引退の前年に遅咲きの花を咲かせられたのは、まさに人的補償の効用だった。

 2人目は2001年オフの平松一宏だ。

 ドラフト8位入団ながら、1年目の98年に貴重なリリーフ左腕として29試合に登板。00年にも優勝決定試合で勝利投手になるなど、4勝を挙げたが、翌01年は防御率8.18と結果を出せず、前田幸長の人的補償で中日へ。

“イケメン投手”として人気を博した平松は、移籍2年目の03年、ローテーションの谷間を埋めて11試合に先発し、自己最多の5勝をマーク。活躍は1年限りだったが、新天地でもうひと花咲かせられたのも、人的補償の結果と言えるだろう。

 3人目も中日移籍組で、05年オフ、野口茂樹の人的補償になった小田幸平だ。

 落合博満監督が「大儲けと言っていいんじゃないかな」とプロテクト漏れを喜んだエピソードでも知られる強肩捕手は、谷繁元信のサブを務めるとともに、明るい性格からチームのムードメーカーとしても存在感を発揮。巨人に残っていたら、おそらく17年の長きにわたって現役を続けることはできなかっただろう。

 4人目はFA移籍した選手が人的補償になるという史上初の悲哀を味わった江藤智だ。

 05年、打率.172、0本塁打とFA移籍後最低の成績に終わった江藤は、40パーセントダウンの大減俸で契約更改。さらに年明け後、豊田清の人的補償で、右の大砲を必要としていた西武への移籍が決まる。

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江藤智の翌年、レジェンド左腕も同じ道を…