ところで岐阜市は岐阜城と関連した文化財を二〇一五年に「『信長公のおもてなし』が息づく戦国城下町・岐阜」として日本遺産に登録した。しかし二〇二一年七月に文化庁は、初期に登録した全国の日本遺産の中で岐阜市の取り組みを、認定取り消しもあり得る最低評価とし、活用計画の再提出を求めた。「『信長公のおもてなし』が息づく戦国城下町・岐阜」は、そもそも発掘した山麓庭園の滝や池の解釈に恣意的な部分があって問題が多い。文化財を観光に活かすのは賛成だが、学術成果をまげて聞こえのよいストーリーをつくるのは適切とはいえない。
■信長築城の武家御城だった二条城
二条城といえば、書院建築の代表的な建物のひとつである。城内に残る二の丸御殿は国宝に指定され、この二条城は一六〇二(慶長七)年から徳川家康が工事をはじめ、一六二六(寛永三)年の後水尾天皇の行幸に合わせて徳川秀忠・家光がいまの姿に改修した城だが、実はこの前にいくつもの二条城があった。
最初の二条城は一五六九(永禄一二)年に織田信長が将軍足利義昭のために築いた「武家御城」だった。この城は現在の京都御苑の南西部分から烏丸通を越えて西へ広がり、一辺およそ四〇〇メートルの規模だった。京都市営地下鉄烏丸線敷設の事前発掘で石垣や堀を発見し、その後も周辺の開発に伴って関連した堀などを発見している。
京都市は断片的な発掘調査成果から、本丸を中心にして三重の堀をめぐらした階層的な二条城の姿を想定している。しかし、当時の城のかたちから考えるとこの復元には無理がある。武家御城が石垣と堀をめぐらしていたのは間違いないが、すべての石垣と堀を、本丸を頂点にして階層的に配置していたとするのは、まるで近世城郭をイメージしたようで適切ではない。
義昭の二条城は、それぞれの屋敷が個別に石垣と堀をめぐらせた分立的な館城群がゆるやかに本丸の周囲に集まっていた、というのが本当の姿だと思う。こうした姿なら、同時代の日本各地の守護の館城にいくつもの類例を見いだせる。
また、二条城を実見した公家、山科言継が『言継卿記』で「だし」と呼んだ施設を、京都市が「出丸」と理解したのも賛成できない。「だし」は、イエズス会宣教師がキリスト教布教のために編纂したポルトガル語の日本語辞書『日葡辞書』が「張り出したところ」「城の少し外側につくられた堅固な場所」と記した。つまり、城の城壁が外側へ張り出したところを「だし」と呼んだのである。
城壁の張り出しは、敵の側面に弓矢や鉄砲を発射した「横矢の張り出し」や外側に突出した櫓台のように、各地の城跡で認められる。義昭の二条城は要所の城壁を張り出して、守りを強化していたと解釈するのが穏当である。実際の義昭の二条城の発掘でも、意図して堀を屈曲させていた部分を見つけていて、考古学的成果とも一致する。徳川二条城と京都御苑内では、発掘で見つかった義昭の二条城石垣の一部を移設展示している。
●千田嘉博(せんだ・よしひろ)
1963年生まれ。城郭考古学者。奈良大学卒業。文部省在外研究員としてドイツ考古学研究所・ヨーク大学に留学。大阪大学博士(文学)。名古屋市見晴台考古資料館学芸員、国立歴史民俗博物館考古研究部助手・助教授、奈良大学助教授・教授、テュービンゲン大学客員教授を経て、2014年から16年に奈良大学学長。現在、奈良大学文学部文化財学科教授・名古屋市立大学特任教授。2015年に濱田青陵賞を受賞。著書に『織豊系城郭の形成』(東京大学出版会)、『戦国の城を歩く』(ちくま学芸文庫)、『信長の城』(岩波新書)、『城郭考古学の冒険』(幻冬舎新書)などがある。