侍ジャパンのメンバーとして第5回ワールドベースボールクラシック(WBC)優勝に貢献した大谷翔平、ダルビッシュ有、佐々木朗希に代表されるように、現在は190センチ台の大型選手が多く存在する。
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だが、かつては190センチを超える選手は、日本ではそれほど多くはなかった。“満塁男”の異名をとり、通算2006安打を記録した191センチの駒田徳広(巨人-横浜)が代表格だが、ほかにも大谷らの“先駆者”として活躍したファンの記憶に残る大型選手たちがいる。
まず、193センチの長身から“ジャンボ”の異名をとったのが、仲根正広(政裕)だ。
日大桜丘時代の1972年にセンバツ優勝投手になり、ドラフト1位で近鉄に入団したが、右肩を痛め、実働4年で通算2勝8敗と結果を残せなかった。
ボールを1メートルも投げられなくなった78年オフ、1度は引退を決意するが、「投手がダメなら打者がある」と思い直し、プロ7年目にして外野手に転向。以来、血のにじむような努力を重ね、翌79年はウエスタンで打率.291、3本塁打、35打点と手応えを掴んだ。
そして、81年10月4日の阪急戦、7回に代打で登場した仲根は、この日を最後に辞任する西本幸雄監督が三塁コーチャーズボックスで見守るなか、今井雄太郎からバックスクリーン左へ9年目のプロ1号。「最後の最後でやっと恩返しができた」と目頭を熱くした。
ライトの定位置を獲得した83年には、8月20日のロッテ戦で9回2死までノーヒットノーランに抑えられていた仁科時成から執念の右前安打を放ち、「あと1人」で記録を阻止した。
さらに85年4月23日の南海戦で6回に放った勝ち越し3ランが、NPB通算5万号になった。
仲根は投手時代の73年5月20日の太平洋戦で、梅田邦三にNPB通算3万号を打たれているが、3年後に記録上のミスが明らかになり、2万9999号に訂正されている。
84年にもNPB通算1000本目の満塁本塁打を1号差(999号)で逃しており、何度もガッツポーズしながらダイヤモンドを1周した仲根は「これで球史に僕の名前が残るんですね」と感無量だった。
近鉄では83年の14本を最高に通算36本塁打、118打点を記録し、プロ最終年の88年は中日でプレーしている。