スロベニア代表として2002年のワールドカップに出場したミリノビッチ
スロベニア代表として2002年のワールドカップに出場したミリノビッチ
この記事の写真をすべて見る

 4年に1度の祭典であるサッカーW杯。日本代表は今年11月開幕のカタールW杯で7大会連続出場となるが、それを上回る“8大会連続”になるのが、日本でプレーしながら母国のユニフォームを着てW杯舞台に立った「外国人Jリーガー」たちである。

【写真】近い将来、海外に移籍しそうな若手日本人選手は

 日本が“ドーハの悲劇”に泣いて出場を逃した1994年のアメリカW杯で、優勝したブラジル代表のメンバーに名を連ねたのが、DFロナウド(清水、代表での登録名ロナウダン)だ。サンパウロFCの主将としてトヨタカップ連覇に貢献した直後の1994年に清水に加入。強靭な肉体は愛称の“ロボコップ”そのもので、激しいチャージとタックル、そして圧倒的な空中戦の強さでJリーグを席巻した。W杯本大会では残念ながら出番なしに終わったが、世界一チームのメンバーであったことは変わらない。そして現在でも唯一、欧州、南米以外のチームに所属した状態でW杯の優勝トロフィーを掲げた男でもある。

 もう一人、現役JリーガーとしてアメリカW杯に出場した選手が、韓国代表のMFノ・ジュンユン(広島)だ。大学卒業後すぐの1993年に広島に入団し、無尽蔵のスタミナと優れたスピードを武器にアタッカーとして活躍。当時は日韓関係が今以上に険悪だった時代で、母国から「裏切り者」と呼ばれ、また、アメリカW杯アジア最終予選で日本に敗れた際に、日本のテレビカメラに向かって「おめでとう。がんばれ」と森保一(現日本代表監督)など友人も多かった日本チームにエールを送ったことでスパイ扱いも受けた。

 その批判、苦難を乗り越え、23歳でアメリカW杯に出場。スペイン、ボリビア、ドイツという(今回の日本代表に似た)組分けの中で2試合に先発出場。1分2敗でグループリーグ敗退となったが、Jリーグでの姿と同じく、歯を食いしばりながら懸命にピッチを走り回った。

 続く1998年のフランスW杯には、多くの現役Jリーガーが出場した。まず目立ったのは、準優勝のブラジル代表の“心臓”となったドゥンガ(磐田)とセザール・サンパイオ(横浜F)の2人。1995年からJリーグでプレーして4年目だったドゥンガは、当時34歳。主将として自身3度目のW杯に挑み、スター揃いのチームを例の如く怒鳴り散らしながら力強く引っ張った。

次のページ
日本で開催されたW杯に出場したのは?