連日熱戦が繰り広げられている夏の甲子園。今回は監督をめぐる3つの珍エピソードを紹介する。
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長い歴史を誇る甲子園大会でも、おそらく史上最年少の18歳の現役高校生監督が話題になったのが、1969年の川越工だ。
同校の粕谷千孝監督は、当初川越高の定時制に入学したが、小学2年からやっていた野球への未練を断ちがたく、翌春、甲子園を狙える強豪・川越工に入学し直した。
2年の夏は3番ライト。時にはリリーフとして登板し、埼玉大会準々決勝まで勝ち進んだ。
だが、川越高の1年間を加えると、「高校在籍3年以下の者」という大会の参加資格に触れることから、新チームでは選手として試合に出場できなくなった。
斎藤玉太郎野球部長は「打撃投手でも球拾いでもいいから、この仲間たちと野球をやりたい」と熱望する教え子のひた向きさを買い、「何とかしてベンチに入れてやりたい」一心から、監督としてチームづくりを手伝ってもらうことにした。
斎藤部長から「みんなを統率していくコーチ的なものでいい」と役割を説明された現役高校生監督は、肩書きは監督でも、ナインたちとは同学年で、強く叱ると反感を買うという微妙な立場に苦悩しながらも、連日ノックバットを振るい、黙々と打撃投手を務めた。
そんな陰の努力が報われ、翌年夏、川越工は埼玉大会、西関東大会を勝ち抜いて、見事甲子園初出場をはたした。
1回戦の玉島商戦、ベンチの粕谷監督は隣の斎藤部長に相談しながらサインを出し、メガホンを手に選手たちを励ましつづけた。
試合は残念ながら1対2の逆転負けも、18歳の監督は「全員よくやってくれた」と同級生たちの健闘をたたえ、背番号のないユニホームでナインの後ろに立って整列した。
同年のアサヒグラフ8月29日号では、「監督は18歳の同級生」と銘打った4ページの特集記事が掲載され、同年の準優勝投手・太田幸司(三沢)とともに注目を集めた。
さらに78年の週刊朝日甲子園大会号では、この記事に心を打たれ、ファンレターを送ってきた静岡県の野球ファンの女子高生と文通を重ね、2年後に結婚したというロマンチックな後日談も紹介されている。