旧暦8月28日は、徳川家康の実母・於大の方の命日にあたる。徳川家康はこの母のため小石川に新たにお堂を建立し、徳川家の菩提寺のひとつとした。寺名は母の号と同じ「伝通院(でんづういん)」。今回はこの日にちなんで、家康と母、そして伝通院について書いてみたいと思う。
徳川家康の人生は、波瀾万丈で幼少期から命を脅かされるものだった。まず母・於大の方は家康2歳の時、離縁され実家に帰されている。理由は母の兄が敵対する織田氏と結んだためとも実家と嫁家の関係が壊れたためとも言われるが、このことから家康には同父母の兄弟はいない。於大の方はその後久松家に嫁ぎ、家康の異父兄弟となる子を持つこととなる。
●家康の幼年は人質人生
その後、家康は今川義元や織田信長の人質として6歳から19歳までを過ごすが、人質として出された直後に父も臣下により暗殺されている。後ろ盾どころか守ってくれるものすらいない中での人質生活とは、どのくらい苦しいものだっただろう。幸いなことと言えば、この時家康の面倒を見る役目を願って出たのが、於大の方の母(つまり家康の祖母)だったことくらいか。これにより、他家に嫁いでいた母は息子と連絡をとり合うことが可能だったのだろう。会えないまでもお互いの近況は知らせ合えたようである。
●母との再会は成人してからに
戦国時代の常とは言え、当時の子女の扱いは、一族の結びつきの証のひとつであり、人質や姻戚関係によってのみ信頼を得られていたのだから、仕方のないことであったろう。家康と於大の方が再会できるのは、桶狭間の戦い後、家康(後の徳川家)が今川氏から独立できたからである。異父兄弟を家臣とした後ようやく母を城へ迎えることができたのだ。だが、以後も家康は信長や秀吉との関係維持のため、兄弟を処罰し息子たちを人質として差し出す人生が続く。このことで息子ともめることもあったようだが、家康は母を大事と同じ城で過ごした。家康にとっては残念なことに征夷大将軍となった翌年の慶長7(1602)年8月28日、於大の方は伏見城で没する。家康が開幕のための準備を伏見城で行っている最中のことである。