●母のために徳川菩提寺を新たに建立
於大の方は、信長に謀反を疑われことで家康に追い込まれ自害することとなった息子や兄たちのため、剃髪し婚家の菩提寺である安楽寺で出家、以後は伝通院として2年ほどをこのお寺で過ごしている。時代とはいえ、家康もまた兄弟・息子・正室など多くの命を奪っているのだ。そんな家康だからか、母の菩提の弔い方は将軍並みの扱いである。亡きがらは江戸へ運ばれ、翌年小石川の地に墓を建立して、伝通院と称した。このお寺ははじめから徳川家の菩提寺のひとつとして扱われてきた。当初、家康は芝・増上寺に母を埋葬する予定にしていたらしいが、増上寺の住職からの提案で新たな堂宇を作ることとなった。浄土宗の7祖である僧・了誉が開いた寿経寺をこの地に移転し、母の号である伝通院と寺名を改めたのである。
●夭折した子たちのお墓が多数
増上寺、寛永寺のお墓が幕末の動乱や震災、昭和の戦火で荒廃したことに比べ、伝通院も爆撃を受けたとはいえ徳川の各墓石はそれでもかなりが残っている。もちろん、明治時代になってからの神仏分離令の影響から、廃仏運動の影響も受けたが、早くから一般に墓地が開放されたことで、一般の信徒も増え衰退を食い止められたのだろう。明治以降の有名人たちのお墓もずいぶん墓地に残されている。そうは言っても、境内にはやはり徳川家ゆかり、幼くして亡くなった子や女性たちのお墓が特に多い。たとえば、2代将軍・徳川秀忠の長女で豊臣秀頼の妻となった千姫、3代将軍徳川家光の正室・鷹司孝子、家光の次男で夭逝した亀松、6代・家宣のふた月で没した次男・家千代、11代・家斉の20男・久五郎など墓碑名をたどればきりがない。
●於大の方は末代まで徳川子女の守り神
将軍中心の増上寺・寛永寺に比べると、伝通院に子女のお墓が多いのはやはり於大の方の威光によるところが大きいのだろう。最ものちの世まで生きた家康の側室・お夏の方も於大の方の近くのお墓に眠っている。側室の多かった家康だが、側室の中で母の眠るお寺に埋葬されているのは、このお夏の方だけである。没したのは4代・徳川家綱の時代となっていて、家康の没後、落飾した時の号・清雲院と同名のお寺を伊勢に建立し、いく度かの焼失と移転をしたのち現在に至っているが、お墓は伝通院に残したのである。於大の方が子女を守ってくれる──もしかしたら伝通院は家康にとってそういうイメージだったのかもしれない。
徳川家の菩提寺は幕末に重要な場面で登場するが、ここ伝通院も例外ではない。新撰組の前身とされる浪士組や上野戦争で戦った彰義隊の結成の場となったのは、伝通院の境内である。幕府の武士たちにとっても母のような位置づけだったのだろうか。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)