シーズンも残りはCSファイナルステージと日本シリーズを残すだけとなり、8月20日に国内FA権を取得した森友哉(西武)の今オフの動向を予測する報道も活発になってきた。もし森がFA宣言すれば、「打てる捕手」が欲しい巨人と大阪出身の森の地元球団・阪神は当然手を挙げてくるとみられる。
だが、狙った選手はほぼ獲得成功の巨人に対し、阪神は昔からFAの目玉選手に片っ端から声をかけているイメージが強く、獲得できなかった事例も多い。そんな阪神のFA“いっちょかみ”の歴史を振り返ってみよう(金額はいずれも推定)。
まずは1996年オフの西武・清原和博から。85年のドラフトで巨人入りを熱望しながら、指名されなかった清原は、11年越しの夢を叶えるため、西武が提示した3年契約を断ってFA宣言。意中の球団はもちろん巨人だった。
だが、阪神は「縦ジマのユニホームを横ジマにするぐらいの意気込みで改革に取り組む」(吉田義男監督)と最高の条件と誠意を示し、“本命”巨人に対抗してきた。
そして、清原が巨人側の「来たければどうぞ」的な態度に不信感を抱いたことから、“敵失”に乗じて、逆転入団の芽も出てきた。
このとき阪神が提示した条件は、年俸3億6000万円の10年契約で、監督、球団社長まで終身雇用という破格なものだった。清原も「最高の評価をいただき、うれしく思う。時間を貰ってゆっくり考えたい」と一度は阪神入りに傾きかけた。
ところが、「あんたの夢は何だったの?」と母親に諭されると、清原は初志を貫徹して巨人入り。条件面では当初2年契約総額5億円の巨人を大きく上回っていた阪神だったが、清原の巨人に対する初恋にも似た憧憬の思いを変えることはできなかった。
次は99年オフのFA戦線。阪神はオリックス・星野伸之の獲得に動く一方で、広島・江藤智も「個人的にはぜひ欲しい選手」(野村克也監督)と右の大砲獲りに参戦し、巨人、横浜、中日とともにしのぎを削った。