スーパーで買って料理に使ったかぼちゃの種をベランダ鉢に植えてみたら、すくすく育って、この後、黄色い花を咲かせた。普段なら捨ててしまうものに、命がつづいていく可能性を感じた、と枝元さん(写真:著者提供)
スーパーで買って料理に使ったかぼちゃの種をベランダ鉢に植えてみたら、すくすく育って、この後、黄色い花を咲かせた。普段なら捨ててしまうものに、命がつづいていく可能性を感じた、と枝元さん(写真:著者提供)

 あぁ片付けって、永遠に終わらないような気がします。こまごまと頭も使うし手間も暇もかかる。いっそのこと全部見なかったことにして捨てたりしたら……。家庭料理を考える資格がなくなっちゃう、そんな風にも思うわけで。

<フードロス>の大義から考えるというより、料理という命を養う行為(これはこれでちょっとオーバーな物言いですが)を生業(なりわい)としながら、その元の、食べ物の命を粗末にしかねない罪悪感と戦っていくような、料理をしながら食べ物を捨てない修行をするような、そんな感じもしているのです。

■気持ちの豊かさで社会を廻す

「捨てる」って、すごくさっぱりします。すっきりします。でも余分なものをどこか見えないところに片付けて終わりにする現代の暮らしは、生き方自体を変えなければいけないところまで来ているのかもしれないと思います。

 地球規模の経済的悪循環のシステムである、大量生産、大量消費、大量廃棄という負のループから降りて、未来を生きる子どもたちにおおらかな自然環境を残したいです。

 大きな野望のようですけど、マジです、本気で思うようになりました。

 物質的な豊かさではなく、気持ちの豊かさが社会を廻していく、そんな社会を考えていかないと子どもたちに申し訳が立たない。かなり切羽詰まったところまで、地球が悲鳴をあげるようなところまで、私たち、欲望を肥大化させてきてしまったのじゃないか、そうも思うのです。

 行き過ぎちゃったとしたら、少し立ち止まって、または来た道を少し戻って、何が大事かをもう一度考え直したい。すぅすぅと風通しのいい循環の中に自分という存在を置いて、過不足なく、つまり「足るを知って」生きていく、そんな段階に進めたらなあ、と思うのです。

■「ビッグイシュー」から「夜のパン屋さん」へ

 話、少し変わります。

 私は、生活に困窮した人たちに雑誌販売という仕事をつくって支援する「ビッグイシュー」にここ10年ほど関わってきました。あるとき、そのビッグイシューに篤志家の方からの寄付が寄せられました。みんなに配って終わってしまうのではなく、なんらかの形で循環するような使い方をしてほしいというご意向でした。

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