すでに38歳になっていたが、現役続行を望んだ多村は、トライアウトは受験しなかったものの、横浜時代の先輩・谷繁元信が監督で、唯一オファーのあった中日に背番号「215」、年俸300万円の育成選手として入団する。
中日は07年にも育成選手で入団した中村紀洋が日本シリーズMVPに輝き、日本一に貢献した実績があり、多村も“第2の中村を目指す!”を目標に1日も早い1軍昇格を目指した。球団も早い段階での支配下登録を考え、交流戦でのDH起用が有力視されていた。
だが、春季キャンプ中に右足肉離れを発症。シーズン開幕後も5月下旬に故障が再発し、離脱中に支配下登録期限の7月末を過ぎてしまう。これまで何度もけがに泣き、「けがさえしなければ、球史に残る大選手になっていたのに……」と惜しまれた多村は、現役最終年もけがが付いて回った。
“最後の夢”を絶たれた多村は「若い選手のお手本になろう」と2軍で最後までプレーを続け、10月1日に戦力外通告を受けると、現役引退を発表。「やりきった感がある。22年間、いいプロ野球人生を送れました」と完全燃焼して現役生活に別れを告げた。(文・久保田龍雄)
●プロフィール
久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」(野球文明叢書)。