その後、近鉄時代にバッテリーを組んだ日本ハムの梨田昌孝監督から1軍投手コーチの要請を受け、現役を引退して指導者の道に進む。

 19年からロッテのコーチに就任し、佐々木朗希を育成した実績などから、来季は新監督に。これも現役最終年に在籍した“ご縁”が生きたと言えるだろう。

 巨人の“攻撃型2番打者”として10年以上レギュラーを張りつづけた清水隆行も、現役最終年に西武でプレーしていた事実は、ともすれば忘れられがちだ。

 08年、入団以来最少の41試合出場に終わった清水は「もう一度一線で勝負してみたい」と出場機会を求めて、西武に金銭トレードで移籍した。

 入団会見で「埼玉は高校(浦和学院)、大学(東洋大)と7年間お世話になった場所ですから、一生懸命ボールを追いかけ、バットを振っていたころを思い出して全力でプレーしたいと思います」と誓った清水は、登録名も「崇行」に変えて心機一転09年の新シーズンに臨む。

 春先に右足太ももを痛め、思うようにオープン戦に出場できないなど、移籍早々試練に見舞われるも、4月3日の開幕戦、ロッテ戦でいきなり3打数3安打。同9日のオリックス戦でも、移籍1号の右越え3ランを含む5打数3安打3打点と、新天地でも“攻撃型”をアピールした。

 だが、好調は長続きせず、出場44試合、打率.208、1本塁打、7打点に終わると、清水は「巨人と西武で過ごした14年間は、夢のような時間だった。一生の宝物。よくやったと自分に言える」と納得してユニホームを脱いだ。

 1年間の評論家生活を経て、11年からコーチとして巨人に復帰しているので、なおさら、西武にいた印象が薄れている感もある。

 現役最終年は育成選手だったことから、中日に在籍していたことをあまり知られていないのが、多村仁志だ。

 横浜時代の04年に40本塁打を記録し、ソフトバンク時代の10年にもチーム三冠に輝いた通算195本塁打の右の大砲も、古巣・DeNA復帰後はチームの若返りに伴って年々出番が減少。15年は出場4試合、0本塁打に終わり、戦力外通告を受けた。

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中日での多村のキャリアは?