■「雪の中の来訪者」というモティーフ
雪には帷(とばり)の役割もあり、闇夜と同じように「この世」をへだて、「あの世」とつなぎ、「この世ならざる者」たちを、こちらの世界に呼び込む。ここで述べた「この世ならざる者」は、鬼のような魔物だけを意味するのではなく、神的な存在をも指す。「夜」「冬」「雪の中」で、人間は超自然的な存在と出会うのだ。
あらゆる地域で、12~1月の年末年始や冬から春へと季節が変わるまだ寒い時期に、神々や恐ろしい鬼のような姿の精霊たちが、人間の住む町や家にやってくる伝承が残っている。日本の「なまはげ」、「歳神」、ドイツの「ホレのおばさん」、各地で一般化している「サンタクロース」の伝承は、いわゆる「来訪神」の一種なのだ。水柱・冨岡義勇は人間ではあるが、人の能力を超えた「救済者」として、竈門兄妹の前にあらわれた。これも雪の中でのシーンだった。
ならば、雪の中で登場した、鬼の無惨と童磨はどういう存在なのだろうか?
■鬼になった堕姫・妓夫太郎は幸せになのか?
ここで無惨と童磨が「真の救済者」なのかどうか、堕姫(=鬼化した梅)と妓夫太郎に対する、彼らのセリフから確認したい。
童磨は言った。「さぁ お前らは鬼となり 俺のように 十二鬼月…上弦へと上がって来れるかな?」と。だが、鬼はたくさんの人間を喰わねば強くはなれない。ネズミや虫を食べる生活から、人間を喰う生き物へという過酷な変化。それでも、無惨はこんなふうに堕姫を褒めそやす。
「随分人間を喰ったようだな 以前よりもさらに力が増している 良いことだ」(鬼舞辻無惨/9巻・第74話「堕姫」)
無惨に対する堕姫の様子を見ていると、少なくとも彼女は不幸からは逃れることができたようだ。しかし、妓夫太郎は妹のことを思い、「何か違う道があったかもしれない」と後悔をにじませる。
■妹の”堕姫”と“梅”という名前
遊郭編の最後で、妓夫太郎が妹の「幸せな人生」を想像している場面がある。その時、彼が思い浮かべたのは、人間だった頃の梅の姿だ。妹が“堕姫”であることを妓夫太郎は望んでいなかった。