第一に彼は妖僧だという。これはしかし思いすごしだ。彼はごくあたりまえな、一人のオトコである。ただし大変な勉強家だった。そのころでは珍しくサンスクリット(梵文)も読めたというから、ガクはあったのだろう。また呪術の修業をしたというので魔法使いのようにいわれるのだろうが、これは当時の僧侶ならたいがいやることで、彼の特技ではない。残っている筆跡をみると、なかなか大らかでゆったりした人がらを感じさせる。

 第二の、そして最大の非難は彼が天皇になろうとしたことにむけられているが、これは誤解だ。史料を読んでみると、孝謙女帝のほうが、そのことに積極的なようにみえる。女帝はしんそこからつくしてくれる道鏡に次第に心を傾けていったのだ。恵美押勝はそうした女帝の態度の反対で、淳仁帝に道鏡との間を非難させた。

 これをきいて憤慨した女帝は淳仁帝に、
「よくも失礼なことを言いましたね。もうこれ以後は、あなたの勝手は許さない。今後は小さな事だけに口を出しなさい。国家の大事は、私が裁決します」

 と宣言した。これが原因で恵美押勝は反乱の兵をあげるが、失敗してあえない最期をとげ、淳仁帝も廃され、女帝は皇位に返り咲く。これが称徳帝である。

 と同時に、女帝は道鏡を大臣禅師として国政に参与させ、のちには法王の称号をあたえる。そのあと道鏡は天皇になろうとしたが、九州の宇佐八幡におつげを聞きにいった和気清麻呂のもたらした答えが「ノウ」だったので、このことはとりやめになった。

 では、こういうおつげをもらった称徳女帝はどうだったか。さすがに皇位にあった彼女は天皇家以外の道鏡を皇位につけることに自信がなくて、神意を問い、それに従って、「道鏡の野望を抑えた」と解釈する向きが多いが、史料で見るかぎり、その後も、むしろ未練たっぷりで、道鏡との交渉はいよいよ深まっている。

 このとき女帝は四十をなかばすぎている。政略的な理由で異例の女性皇太子となって以来、ついに結婚の機会を与えられなかったひとの、最初にして最後の愛の燃焼なのだ。

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