ところが当時の政治情勢は女帝が夫を持つことを拒否した。おそらく、夫とその一族の手に権力が移るのを恐れたのだろうが、男の天皇には多くのお妃を許しておきながら、さりとは不公平な話である。

 愛の挫折ののち、女帝は五十三歳で崩じるが、その直前まで、女帝は道鏡といっしょに道鏡の故郷に造られた由義宮で過している。

 ――私たちの結婚をみとめない奈良の都の男たちの顔なんかみるのも嫌!

 という事だったのだろうか。そこで女帝は男女の農民たちの歌や踊りに興じている。一生の恋を賭けた皇位問題に挫折して、政治への関心を全く失い、ただ愛する人といることしか考えていない女帝の姿に、むしろ涙をさそわれる。

 女帝の死とともに道鏡は下野(栃木県)の国分寺に追いやられる。このときの彼の退場ぶりは、しごくあっさりしていて、悪あがきをしていない。もし彼がほんとうに権力欲の権化だったら、こうではなかったろう。彼はひたすら孝謙女帝の冥福を祈りながら二年後にその命を終えた。

 もし――という仮定は、歴史においてはナンセンスなことだが、あえて私はひとつの仮定をしてみたい。もし、女帝が道鏡を夫とすることができたら、という仮定をである。

 それは孝謙女帝ひとりの幸福にとどまらず、日本の女性の歴史を少し変えたのではあるまいか。孝謙女帝のトラブルにこりたのか、それ以降日本歴史から女帝はほとんど姿を消してしまうが、女帝も結婚できるということになったら、もっと女帝が登場したかもしれないし、ひいては、女性のお値打ちも、もっと高まっていたかもしれない。

 が、奈良朝の男性はそれを許さなかった。なんとヤキモチ焼きの日本の男たち! 意地悪な男たちにかこまれて、むなしい栄光の中に朽ちていった孝謙女帝は、日本史上最も孤独な女性かもしれない。