「江戸300年の泰平」の礎を築いた徳川家康。日本史を代表する武将であり政治家といえるが、その人物像については「たぬき親父」「保守的」などマイナスのイメージで語られることも少なくない。しかし徳川研究の第一人者である笠谷和比古氏によると、「それは古い認識の家康像」という。そこで、週刊朝日ムック『歴史道 Vol.25 真説!徳川家康伝』では、テレビ等でもおなじみの磯田道史氏とお二方で徹底対談。最新の研究成果をふまえて、NHK大河ドラマ「どうする家康」だけではわからない「家康の真実」について存分に語り合ってもらった(全3回の3回目)。
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磯田:近年では、国衆を従属させることによって、もともと国衆の一人だった家康が「戦国大名化した」という表現もよく見受けられます。
笠谷:戦国大名の定義は非常にあいまいな部分があります。国衆が成長して戦国大名になったのを国衆型戦国大名と呼び、家康をその例として挙げる場合もあるようですが、もしその言葉を使うならば、代表的な大名は毛利でしょう。戦国大名毛利氏の権力というのは、まさに国衆の連合体です。毛利氏というのは、「ワンオブゼム」に過ぎません。ただ、徐々に力をつけていって、同輩のなかでは第一人者という位置づけとなり、戦国大名となります。しかし、有名な厳島の戦いで陶晴賢に勝利した後に出された文書を見ると、相変わらず傘連判の形の連判状を出している。
磯田:傘連判というのは、署名を円となるように並べて誰が首謀者かわからないようにした文書形式ですね。
笠谷:確かに毛利元就は、すでに国衆の上位にいたでしょうし、その一族である小早川や吉川も上位の権力だったでしょう。それでも、傘連判を使うというのは、署名者は同輩という表現です。だから、国衆の連合体という体質を脱し切れていなかったということを意味しています。毛利氏の場合、それを元就の孫の輝元の時代まで引きずり、関ヶ原合戦の後まで克服することができませんでした。
磯田:家康は、それを克服したわけですね。
笠谷:家康自身の家臣が、全部押さえこんだのだと思います。だから、戦国大名としての家康が達成したものと毛利氏が達成したものとは根本的に違うと、私は考えています。
磯田:それを、同じ国衆型戦国大名と表現するのは疑問だということですね。
笠谷:その通りです。