笠谷和比古さん(写真左)と磯田道史さん(写真/高橋章夫)
笠谷和比古さん(写真左)と磯田道史さん(写真/高橋章夫)

磯田:家康は野戦の名手と呼ばれますが、やはり野戦で思う存分戦えたのは、酒井忠次と石川数正に東三河と西三河の統治を任せて家臣化を進めることで、統一的な指揮体系を持ったからでしょう。陣払いの恐怖から解放されたわけです。 

なぜ毛利にできなかったことが、家康にはできたのか。漠然と私が考えている理由がいくつかあります。まず三河や遠江が毛利領国のような複雑な地形ではないこと。家康の領国はまだ三河一国で、9カ国を領した毛利に比べれば小規模だったこと。そして祖父の清康の時代に、ある程度、松平惣領家のカリスマ性が認知されていたこと。そして、周囲を強国に囲まれていたことです。 

もちろん、周囲を強国に囲まれていたのは毛利も同じですが、やはりいつ滅ぼされるかわからない恐怖感が、安祥・岡崎松平氏のもとへの統合を招いたような気がします。そうでなければ、自律した権力としての誇りを捨ててまで、三河の国衆や松平一族が、家康のもとで統合される道を選んだ説明がつかないような気がします。

笠谷:三河譜代の家臣団の結束力の強さがどこから来るかは、大きな問題だと思います。その結束力があったからこそ、家康の覇権は可能だったわけですから。

磯田:三河は一向一揆が激しい地域です。武士は、主君に向かって一心に忠義をささげて知行を増やし、その関係を末代まで誓う方向性に行かないと、阿弥陀仏に一心に向き合う一向宗の信仰に掘り崩されてしまう恐怖もあったのではないかともいわれます。

笠谷:家康家臣のかなりの部分は一向宗の門徒でもありました。だから家康は苦しめられたわけです。私は、家康の忠実な家臣であることと、誠実な門徒であることは矛盾していなかったと思う。彼らは両面性を持っていたのではないでしょうか。

むしろ、先ほどご指摘の理由のうち、清康の時代にすでに三河は統一に向かっていたということが重要なのではないでしょうか。国衆の独立性も一族の分立も、ある程度、祖父・清康の段階で解消に向かっていた。それが家康に大きな遺産となったのではないでしょうか。

そのあと、すでに触れたように息子の広忠は岡崎を追われ、今川の力で戻ることができた。その結果、今川から無理難題を言われても我慢せざるを得なかったのは、仕方がないことでしょう。 

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強固な家臣団ができたのは「ふるい落とし」