『歴史道』から
『歴史道』から

磯田:合理的な選択の一つではないかと思います。むしろ、人質をいわば見限って、今川からの独立をするという決断をした家康の方が、理解しがたい(笑)。人質となった妻子の築山殿や特に信康は、常に死の危険にさらされたわけですから、築山殿が怒るのも無理はない。

笠谷:要するに、自分たちは完全に見捨てられたわけですから、家康に対しては相当、含むところがあったと思いますね。

磯田:結局、石川数正の外交力で、人質交換が実現して、妻子は岡崎に戻されますが……。

笠谷:その後、今川から独立した家康は、三河から遠江へと領国を広げ、さらに今川領国の駿府まで領土を拡大します。当然、現地の武士や今川系の人間を家臣として編入してゆきます。家臣団は層状に広がってゆく。しかし、あくまで家臣の中核は三河の譜代です。譜代といっても、武功によって評価された譜代と、行財政の事務能力を評価された奉行系の執事とがいます。この違いは大事です。

思い違いしている方が多いと思うのですが、幕府の老中というのは、実は二級の譜代がやるものなんです。老中――もとは年寄と言いましたが――を務めるのは格下の譜代で、一級の譜代は老中などやりません。この場合の一級、二級の差は、武功によります。つまり、行政上の事務的な仕事は、戦場ではあまり役に立たないような人間がやるという建前なのです。 

ところが、軍功の家の人物が老中の役割を求められる時が例外的にある。それが大老なんです。本来、老中などをやるべき家柄ではないのに、あえて幕閣に入るときは、老中より一つ格上の大老となることでバランスを取ったわけです。

『歴史道』から
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磯田:これは徳川家には限りませんが、戦いの前線、つまりフロントラインに置かれた巨大な備えとしての役割をもつ軍団の長は、ものすごい名誉なんですね。

笠谷:幕府の老中も、大名家の家老も、本来は行政長官ではなく軍事司令官ですから。そして彼らのいる場所は城のなかではなく、国境に配置される。まさに師団長です。それが時代とともに行政長官型家老に変容してくる。

磯田:徳川時代にできた組織というのは、本来は軍人の組織を行政組織に転用した姿である。それを理解しないと、本当の意味が理解できないということですね。

(インタビュー構成/安田清人[三猿舎])

週刊朝日ムック『歴史道 Vol.25 真説!徳川家康伝』から抜粋

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