『歴史道』から
『歴史道』から

 磯田:もちろん、今川氏に対する不満はあったでしょう。織田との小競り合いでは常に矢おもてに立たされていたわけですから。だからこそ、桶狭間の戦いの後、家康が岡崎に帰ってきたときも、高い支持率で迎えられたのだと思います。

笠谷:すでに桶狭間の戦いの前に、家康は寺部城主の鈴木重辰の討伐を今川義元から命じられ、岡崎衆を率いて戦い、勝っています。

磯田:家康の初陣ですね。

笠谷:おそらく、この戦いに臨んだ家臣たちは歓喜の涙を流したことでしょう。しかし、義元は旧松平領の一部しか返還してくれませんでした。家臣たちは収入がないので、普通なら離散してしまうところですが、百姓仕事までして命をつないだ。そこに、三河衆の誇りを感じます。もっと条件の良い大名のもとに移籍するという道もあったのに、苦境を乗り切った。逆にいうと、そういう苦境にも関わらず、家康のもとに残った家臣たちだから、強い絆を持ちえたともいえるでしょう。

磯田:いわば「ふるい」にかけられて残った家臣だから、強いということですね。

笠谷:ふるい落としの試練を乗り切ったから、強固な家臣団ができたのでしょう。

磯田:桶狭間の戦いで義元が死んだとわかったとき、今川の本拠である駿府に逃げようと主張した人たちもいたようです。実際には岡崎の大樹寺に逃げ込むわけですが。『武徳編年集成』を見ると、駿府統合論という考えがあったことが分かります。大半の家臣は、岡崎に入ろうと主張します。しかし、一部、今川の家臣と一緒に駿府に行こうと発言しています。

笠谷:それは一つの選択としてはあり得ますね。もし本気で信長が三河に攻め入れば、当時の岡崎城では持ちこたえられないでしょう。もう一つ、当時、家康だけでなく家臣の何人かは、今川氏に人質を預けていました。家康の妻は関口氏という今川一門扱いの出身だったので無事でしたが、家康が岡崎に戻って独立をし、さらに織田と講和を結んだことで、家臣から送られた人質は処刑されています。そういう状況を考えると、駿府へ逃げようという動きがあったのは理解できます。

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理解しがたい家康の“決断”