お笑い芸人のマキタスポーツさんによる「AERA」の連載「おぢ産おぢ消」。俳優やミュージシャンなどマルチな才能を発揮するマキタスポーツさんが、“おじさん視点”で世の中の物事を語ります。
* * *
勉強について思うところを。
よく「勉強だけが全てではない」とか、「受験を勝ち抜いたとしても、そこから先が勝負」とかいう言説を耳にするが、あれは本当だろうか。
「勉強だけが全てではない」というのは、そう言っておかないと、勉強しなかった人(あるいは、事情により勉強してこられなかった人)を救えなくなるからだろう。本音で「勉強が全て」と言うと、一部少数の例外が当てはまらなくなってしまうから、“下のライン”に合わせて作ったセーフティーネット的な教訓と解釈したい。実際社会に出て驚いたのは、絶えず「勉強」が付いて回っていたことだった。少しでも自分を向上させたいなら勉強は避けて通ることはできない。
たった今受験に失敗した人へ、「結局勉強が全てなんだよ」と言うことはあまりにかわいそうだ。そんな時に「勉強だけが人生じゃないよ」とは言ってあげたいし、実際それ的な言葉は便利だ。類似品に「競争が全てじゃないよ」とかもあるが、確かに競争だけが人生ではないような気がする。が、勉強は“ほぼ全て”と言っていいんじゃないだろうか。勘違いしがちなのは「勉強≒受験」、「勉強≒競争」という構図だ。枠がある受験と競争はセットである、でも、「勉強」は競争や受験にだけ纏(まつ)わるものではない。
将来何かしら勉強する時の対処法として「受験」というシステムは非常に合理的だ。“勉強法を学べる”からである。
勉強慣れしていない人の特徴に「勉強法を知らない」というものがある。将来何を勉強するかを選ぶときが来た時、受験勝者はその点においてアドバンテージがある。
将来やることも決まってないのに勉強だけをさせられる苦痛があるから皆逃げ出すし、いろいろをごまかす。しかし、受験に限って言えば、それは勉強ではなくゲームである。普通は「何かのための勉強」なのに、「受験」はそれ自体が目的になっているゲーム。だと思って割り切って取り組める者が強いのはそのためである。学校や親はあたかも「勉強のための受験」を装うが、その実「受験のための勉強」というのが混じり気なしの解答だろう。国語は難しい。