三浦武(みうら・たけし)/1961年、福島県生まれ。河合塾現代文科講師。仙台校、麹町校、MEPLO池袋教室、MEPLO横浜教室に出講。共著に『評論・小説を読むための新現代文単語』など(撮影/写真部・片山菜緒子)
三浦武(みうら・たけし)/1961年、福島県生まれ。河合塾現代文科講師。仙台校、麹町校、MEPLO池袋教室、MEPLO横浜教室に出講。共著に『評論・小説を読むための新現代文単語』など(撮影/写真部・片山菜緒子)
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「生徒の人生をいい意味で狂わせる」といわれる授業は、90分のうち60分を本文解説に費やす。文学史の講座には、文学史が入試に必要ない生徒も大挙詰めかける。受験生の“飢え”を満たす、予備校の存在意義とは。河合塾講師の三浦武さんに話を聞いた。

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 権威に反逆する場──かつての予備校はそんなイメージでした。先生らしくない、しかしとびぬけて頭のよさそうなおじさんが大学を批判したりなさる。大学受験予備校なのに(笑)。痛快なんです、屈折した浪人生には。あるいは、合格点に必要なものだけでカリキュラムを組み、手段である入試を目的にしてしまった。これもひとつの反逆でありパロディーでしょう。それが成り立つのは高校という正統な教育空間があるからです。

 その高校が合格実績という強迫にさらされて予備校みたいになるのはまずい。入試を“最終目標”として勉強が合理化され効率化されていく。これは危ない。

 合格までの最短距離を急ぐ。一本道だから迷いはしないが、しかしそのとき自分は“自分”として生きているか? いつのまにか“自分”を見失っていないか? そんなときは一旦「撤退」したほうがいい。その「撤退」の場所が、たとえば切実な文学や芸術です。そこで自分をとり戻して、あらためて世の中に出ていく。予備校もまたその「撤退」の場所ではないか、それが私の予備校観なのです。すなわち、予備校は芸術である、と(笑)。

 就職だとか入試だとか、そんな外的なものに翻弄されて、自分の内にわき上がる内的な動機を忘れてはつまらない。私は何でも面白がって勉強してみせているだけなのです。敬意と憧れをもって、面白がって文章を読んでみせれば、受験生も学問に対する敬意や憧れをもってくれるでしょう。そこに私の職分がある。今、予備校は、学びたい、こんなふうに考えられるようになりたいという、先達への憧れ、学問への素朴な動機をよび覚ます場でもあるべきです。

 考える自分を生徒にさらす。すると彼らの頭も動き始める。現代文という教科に関心のなかった諸君なんかも案外面白がって聞いてくれます。文学の話でも芸術の話でも。みんな飢えてるんじゃないかな。

(構成/編集部・小柳暁子)

AERA 2018年9月24日号