元朝日新聞記者でアフロヘアーがトレードマークの稲垣えみ子さんが「AERA」で連載する「アフロ画報」をお届けします。50歳を過ぎ、思い切って早期退職。新たな生活へと飛び出した日々に起こる出来事から、人とのふれあい、思い出などをつづります。
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最近は本の執筆が難航して引きこもりがちなのですが、大分での仕事を引き受けたのは何を隠そう別府があるから。「地獄」と称される別府温泉には昔から興味津々で、死ぬまでに一度は行ってみたい場所だったのです。
というわけで、仕事を終え恐る恐る足を延ばした地獄は予想をはるかに超える不思議ワールドでありました。
大分から車で温泉街に向かうと、はるか向こうにモクモクモク大量の煙が。えっ火事?と思ったらそこが別府。街に着いてさらにびっくり。道路から何から隙間という隙間から煙が噴き出している。大地は相当怒っているらしく、湯は出てくるわ蒸気は出てくるわ、でもそのおかげで温泉に入れるわ料理もできちゃうわ、つまりは街の人は地獄の怒りを大切に分け合って暮らしているのでありました。
羨ましかったのは、みんなが少しずつお金を出しあい、近所に共同の「マイ温泉」を持っていること。だから街ではみんなパジャマとかジャージとか油断しきった姿で、そこらじゅうにあるベンチで湯上がりのおしゃべりを楽しんでいます。なるほど風呂が家の外にあるってことは「家の範囲が広がった」ってことなんだな。ここでは「街が我が家」が普通なのであります。
でも共同風呂を維持するのは決して簡単ではないのではないでしょうか。どこも無人だから全員がマナーを守らねばなりません。湯の温度をめぐる対立もある。湯船は一つなので熱湯派・ぬる湯派双方が満足するのは至難の業に違いない。でもそれを乗り越えて共同風呂を使い続けてきた別府の人々は、実に洗練された大人でありました。みなさん控えめですが、目が合うとニッコリして「熱くない?」などと気を使ってくださいます。つかず離れず。身内でもなく他人でもない「仲間」。そんな関係を誰もが当たり前に持っているって、これは現代の一つの奇跡なんじゃないかと思いました。
ここでは老後の孤独なんてないんじゃないかしら。必要なのはお金でも制度でもなく、隣人への信頼なんだよね。
※AERA 2018年4月30日-5月7日合併号