日清戦争の頃の清国は、イギリスと戦ったアヘン戦争(1840~1842年)と、イギリス・フランス連合軍と戦ったアロー戦争(1856~1860年)を経て、上海や天津にイギリスやフランスの租界地があるなど、局部的に西洋列強の植民地支配を受けていた。
また、国内では王朝打倒の革命を志す孫文たちによる不穏な動きが広がっていた。つまり、清国の国力は著しく弱まっていた。日本は、清国がもう朝鮮を支配できないと見て朝鮮に入っていったのだ。
■軍隊が賠償金獲得のための事業体になった
三つ目のポイント、日清戦争の終わり方はどうだったか。
戦闘において清国軍を圧倒し、ソウルを押さえて平壌にまで達した。清国がもう戦争はやめようと言い出す。そこで首相の伊藤博文が下関に清国の欽差大臣(全権大使)の李鴻章を呼び付けて、停戦交渉に入る。
結局、日清講和条約(下関条約)が結ばれた。日本は約2億3200万円(国家予算の約3倍)もの戦費を使ったが、戦勝国として、大きな三つの戦果を獲得する。
一つ目は賠償金2億両テール(約3億1100万円)。当時の日本の国家予算の約4倍にあたる大金だ。
二つ目は遼東半島、台湾、澎湖諸島という清国領土の割譲。
三つ目は朝鮮の独立。これは、撤退する清国に代わって日本が朝鮮に入ることを意味していた。
その後、ロシアが主導する三国干渉で遼東半島を返還(見返りとして賠償金3000万両を追加)したとはいえ、近代日本は最初の対外戦争において大きな国益を獲得したことに間違いはない。しかし日本はこの勝ちによって、結果的に戦争に対して「悪い癖」がついた。
戦争に勝てば賠償金を取れる、領土を取れる。つまり、戦争は国家に大きな利益をもたらす事業だと考えるようになった。
事業だから会社経営と同じような発想になる。物を生産する会社だったら、資本を投下して製品を売って利益を得る。利益を拡大するためにさらに資本を集め、利益も再投資して生産設備などをどんどん作っていく。事業に成功すれば際限なく利益が拡大するからだ。
戦争もこれと同じ。日本は国を豊かにするために資本を軍事に投下するようになった。利益として一番わかりやすいのは賠償金だ。つまり日清戦争に勝ったことによって、日本は軍隊を賠償金獲得のための事業体と考える癖がついてしまった。
上司が部下に「契約を取るまで帰って来るな」と言い、時間営業を続けるセールスマン集団と同じように、軍指導者は勝つまで戦争を続けようとした。だから適当なところで停戦することができなくなる。挙げ句の果てが太平洋戦争の無条件降伏。これが日本に軍事哲学がないと私が考える大きな理由だ。
◎保阪正康(ほさか・まさやす)
1939年、北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部社会学科卒業。「昭和史を語り継ぐ会」主宰。延べ4千人に及ぶ関係者の肉声を記録してきた。2004年、第52回菊池寛賞受賞。『昭和陸軍の研究』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞受賞)『昭和史の急所』『陰謀の日本近現代史』『歴史の予兆を読む』(共著)など著書多数。