建て替えが初めて住民の口の端に上ったのは88年のことだった。狭い住戸を広げたいニーズを背景に、「有志の会」の女性リーダーが、集会所増築の完成式で「増築よりも建て替えをしましょう」と呼びかけた。有志の会は、理事会に建て替え検討の必要性を答申する。90年に住都公団を巻き込み、試案を提示させた。公団の建て替え案は、「全員合意」の「等価交換方式」だった。住民が敷地をディベロッパーに提供し、建物完成後に還元率100%で再入居する。仮住まいと引っ越しの負担は生じるが、同じ広さの新築住宅に無償で入れるプランだった。
翌年、管理組合は「建て替え委員会」を正式に立ち上げる。理事会も重い腰を上げ、さあこれからと盛り上がった、その矢先、日本経済のバブルが弾けた。女性リーダーはじめ建て替え推進メンバーは、値崩れする前に住戸を売って次々と団地から去る。不景気の波の前では有志もヘチマもない。公団も景気の悪化を理由に尻込みをする。残された理事は、途方に暮れた。「神輿を担ごうとしたら担ぎ手が一斉にいなくなった」と松島。建て替え委員会を軸に一から学び直すしかなかった。
では、建て替えに向けて最も高いハードルとは何か? それは、都市計画法11条の「一団地の住宅施設」の縛りだった。諏訪二丁目住宅は、良好な住宅地形成のために建蔽率10%、容積率を50%に抑えて建設されていた。この制限下では建物を再建しても増床は難しく、新規住戸の分譲で工費を捻出するのは不可能。住民の自己負担は増え、還元率が下がる。法の規制がある限り、建て替えは絵に描いた餅だった。
そこで管理組合の理事たちは、実力行使に打って出る。住民9割の署名を携えて東京都と多摩市に都市計画を見直すよう要請に行った。94年秋には住宅行政の本丸、建設省へと陳情に出向く。建設官僚から「一団地の住宅施設を解消し、(自治体と住民による)地区計画に移行することが可能だろう」と回答を得た。実際に規制が解けるまでには10年以上の歳月を要するが、光明が差したのは事実だった。