そんなタイミングでラヴェルの「夜のガスパール」なんてピアノ曲をリクエストすると、それほど長くない曲だし、それほどポピュラーでもないから、「まあね」といった和んだ空気が流れたりするわけである。
ここまで読んで、なんてスノッブでいやったらしい世界だろうとお感じになった読者が多いと思うが、その通り! 大センセイ、授業も出ずに昼間から薄暗い名曲喫茶の片隅に深海魚のごとく沈潜して、自分のリクエストへの反応をものすごく気にしながら、よく意味のわからない海外の小説を読み耽ったりするのがとても好きだったのである。
一方、普通の喫茶店で理屈っぽい話をこれ見よがしにするのも好きであった。
ある日の夕方、「白ゆり」という地下鉄の駅の入り口にある喫茶店で、友だちとふたり、アインシュタインの相対性理論がどうしたこうしたという議論に熱中していたことがあった。
お互い新書を一冊読んだ程度で宇宙のすべてがわかったような気分に浸っていたのだろうが、議論が佳境に入ってふたりとも声が大きくなってきたとき、突然、背後のソファに座っていた派手な洋服を着たお姉さんがバッと立ち上がると、大声でこう叫んだ。
「アンタたち、下らない話してないでバイトかなんかしなさいよ!」
たぶんお姉さんは夜のお仕事の人で、出勤前の一服をしようと喫茶店に立ち寄ったに違いなかった。
お姉さん、あのときの口舌の徒は、長じて、やっぱりいかがわしい口舌の徒になりました。
※週刊朝日 2018年8月31日号