いずれにせよ、こうした情報研修はその後も拡大を続け、60年頃に陸幕2部内で「特別勤務班」と呼称するようになった。特別勤務班が日米の非公然の合同工作機関として秘密裏に立ち上げられたのは、61年のことだ。前述したように、タテマエ上は「陸幕2部情報1班特別勤務班」とされたが、実際には陸幕2部長直轄の秘密機関であった。
ちなみに、この特勤班誕生を主導したのは、当時の広瀬栄一・陸幕2部長である。広瀬氏は発足直後の警察予備隊で情報教育部門(調査学校の前身)の立ち上げを主導するなど、旧軍情報将校出身者としてはもっとも早くからこの分野を主導してきた人物である。戦時中は北欧で諜報活動に携わり、陸軍次官秘書官として終戦を迎えたが、終戦時には秘密諜報要員養成機関「陸軍中野学校」の学生・教官グループを束ねたという隠れた逸話も持つ。終戦内閣で下村定陸相の秘書官だったことから、GHQといち早く接触した経歴もあるようだ。
広瀬氏はまた、前出の藤原岩市・元調査学校長や杉田一次・元陸幕長とともに、後に自衛隊における三島由紀夫の後見人的な役割も担ったといわれる。三島の盟友だった前出・山本舜勝氏が晩年に発表した手記には、広瀬氏が「CIAとも関係があった」との記述があるが、その真偽は不明だ。
なお、当時を知る元幹部によると、こうした特殊な機関の創設については、陸幕や内局の上層部も報告を受けていた可能性がきわめて高いという。別班については長らく「防衛庁長官も事務次官も陸幕長も知らない秘密機関」「歴代の陸幕2部長だけが把握している」と噂されてきたが、俗説に過ぎなかったようだ。
その後、「武蔵」という秘匿名は65年に廃止され、以後、特勤班もしくは別班とのみ通称されるようになった。前述したように、発足当初は陸幕2部長が直轄していたが、その後、2部内に連絡幕僚が置かれ、さらにその後は情報1班長が連絡を担当するようになった。
ちなみに、初代の連絡幕僚は前出の山本舜勝氏で、初代の別班連絡兼任情報1班長は前出の宮永幸久氏だったという。