「CIAからの工作依頼は別班が直接受けるわけではなく、内局調査課経由で入ってきます。内局はそうした工作を自ら行う場合もありましたが、陸幕2部に委託するケースもよくありました。われわれはそうした案件を“特任工作”と呼んでいました。そういえば、朝鮮総連への工作で内局が失敗し、別班がカバーしたこともありました」
こうしてまったく国民に知られることなく秘密の活動を続けていた別班は、73年に拠点としていた米軍のキャンプ朝霞が日本側に返還されたのにともない、500部隊の本拠地であるキャンプ座間に移転した。そして、ほぼ同じ頃に前述した金大中事件が発生し、「赤旗」などに大々的に書かれたため、規模を大幅に縮小したうえ、当時、東京・六本木の防衛庁にあった陸幕地下に移動したという。
その後、別班がどのような道をたどったかは定かでない。しかし、同じ六本木の米軍赤坂プレスセンター(通称「ハーディ・バラックス」)には、500部隊の連絡分遣隊が入っており、そこに現職の自衛官が出入りしていた形跡がある。ハーディ・バラックスの500部隊関連部署に再就職した別班OBもいる。
陸幕2部はその後、陸幕調査部と名称を変え、現在はさらに陸幕運用支援・情報部情報課に改編されているが、かつての別班に該当する部署が廃止されたという話は、いまだ聞かない。
最後に、自衛隊の秘密機関「陸幕2部別班」のカウンターパートであった米陸軍情報部隊の知られざる戦後史についても少々触れておきたい。
米陸軍の500部隊は戦後まもなくから日本に進駐し、主にヒューミントや公刊情報収集・分析(専門用語で「オシント」という)を行ってきた。オシントの分野では、旧軍参謀本部で第2部第7課(中国課)支那班長を務めていた山崎重三郎という人物を中心に、旧軍の情報将校を数十名雇用して情報分析にあたらせてきた。
この部署は「太平洋文書センター」など、そのときどきで名称を変えてきたが、関係者のあいだでは「500部隊の図書部」と通称されてきた部署で、現在も「アジア研究分遣隊」としてキャンプ座間内に実在している。現在の日本人スタッフのほとんども元自衛官だ。