■元隊員が証言した“密約”の実態とは…
54(昭和29)年、日米相互防衛援助協定(MSA協定)が締結され、正式に自衛隊が発足したが、その水面下で極東米軍司令官ジョン・ハル大将が吉田茂首相に書簡を出し、ある秘密協定が結ばれた。
元隊員が証言する。
「それは、陸上自衛隊と在日米陸軍が非公式に合同で諜報活動を行うという内容でした。もちろんアメリカ側の意向です。戦後、世界各地に拠点を広げた米軍は、あちこちの同盟国と似たような秘密協定を結んでいたようです」
これは今日に至るまで、戦後長らく秘匿されていた“密約”にほかならなかった。
当時を知る複数の元別班員たちの証言によると、その後、56年頃から、こうした自衛官のインテリジェンス研修が本格化した。米軍側の受け入れは、陸軍第500情報旅団(通称「500部隊」。本部・キャンプ座間)の分遣隊である「FDD」と呼ばれる秘密の情報機関で、その拠点はキャンプ・ドレイク(キャンプ朝霞)であったという。
この研修コースを米軍側は「MIST-FDD」と呼称した。MISTはミリタリー・インテリジェンス・スペシャリスト・トレーニング(軍事情報特別訓練)の略で、陸自側はそれに「武蔵」という秘匿名をつけた。ムサシはミストに語感が似ていることから名付けられたようだ。ちなみに、500部隊の隊長は大佐クラスで、FDDのトップは中佐クラス。歴代のFDD代表には日系人(その一人はスエチカ中佐)もいたという。
なお、その頃には、自衛隊でも旧軍の情報将校出身者が情報部門の中枢を担うようになっていた。とくに3代目2部長となった天野良英氏(後、統幕議長)、4代目2部長の広瀬栄一氏(後、北部方面総監)、5代目2部長となる田中光祐氏、2代目調査学校長となった藤原岩市氏(後、第1師団長。戦時中、南方で活躍した特務機関「F機関」の機関長として知られる)などが情報部門人脈の中心にいた。
さらに、後に東部方面総監部2部長になる上阪(こうさか)賑一氏、7代目陸幕2部長となる栂(とが)博氏、あるいは後に調査学校幹部として三島由紀夫事件(70年に三島が東部方面総監部に籠城し、自衛隊にクーデターを呼びかけた後で割腹自殺した事件)に関与した山本舜勝氏や、コズロフ事件(80年に摘発されたソ連諜報機関による自衛隊スパイ事件)に連座することになる宮永幸久氏なども、この頃から活躍していた。旧軍の情報将校出身で後に陸幕長となる杉田一次氏も、こうした人脈を強力にバックアップしていたという。