有末元中将のグループは“有末機関”とも通称されたが、その頃は他にも多くの元情報将校が非公式の協力者としてG-2傘下で情報工作活動に従事した。もっとも、有末元中将をはじめ、彼らのほとんどは、いわゆる“右翼”勢力の一翼として反共工作を担ったかたちだった。そんな彼らの何人かは、日本軍の再武装を画策した。

 そんななか、1950(昭和25)年6月25日、北朝鮮で金日成の軍隊が38度線を越えて南侵し、朝鮮戦争が始まった。その2週間後の7月8日、GHQのダグラス・マッカーサー司令官は吉田茂首相あての書簡で警察予備隊創設を命令し、7万5千人の武装集団が誕生した。現在の自衛隊である。

 警察予備隊はその発足時から、目立たないかたちで情報部門を整備した。もっとも、警察予備隊は当初から旧軍出身者よりも旧内務省出身者が主導しており、それは情報部門も同様だった。草創期の自衛隊情報部門で、その立ち上げに加わっていた元幹部は、懐かしげにこう語る。「初代2部長となった小杉平一さん(後、関東管区警察局長)、2代目2部長の山田正雄さん(後、陸幕長)、それに内局調査課長の後藤田正晴さん(後、警察庁長官・内閣官房長官・法相)などの旧内務官僚たちが中心になって動いていた。

 他に旧内務省出身者としては、後に統幕議長となる栗栖弘臣さんも、2部の情報班員として参画していたね。こうした人脈は、やはり旧内務官僚で後に陸幕長となる大森寛さんなどとも連携していた」

 このように発足した警察予備隊には、戦後G-2と連携していた“有末機関”系の人脈がほとんど入らなかったため、アメリカ進駐軍はあらためて両国の軍事情報部門を連携させることにした。そこで52(昭和27)年より、警察士長(3佐)・1等警察士(1尉)クラスの中堅幕僚を在日米軍情報機関に出向させ、研修させるようになった。これが後の「別班」の起源である。

 同年に警察予備隊が保安隊に改編された後も、この研修制度は続き、こうして日米のインテリジェンス部門の連携は徐々に親密さを増していった。

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元隊員が証言した“密約”の実態とは