優しかった、面白かった、頼もしかった……、人それぞれ、父親に対する思いを抱えている。どれも自分をつくってくれた大切な思い、でも、面と向かって直接伝えるのは難しい。週刊朝日では、「父の日」を前に、8人の方に今だから話せる亡き父への思いを語ってもらった。その中から、井上麻矢さんが語った父・井上ひさしさんのエピソードを紹介する。
【写真】社長を継いだときに井上麻矢さんが父ひさしさんにもらった時計
* * *
父が直木賞を受賞したのは、私が4歳のとき。当時原稿用紙で月2千枚を書いていた父は、いつも書斎にこもっているか、仕事で外出しているかでした。食事中もいつも本を読んでいるし、寝ているところもほとんど見たことがありません。母と姉が2人、女性ばかりの家族だったので、子どものころは、「男の人は遊んだり寝たりしないものだ」と信じ込んでいたほどです。
私は小学校を卒業するくらいまで、自分でもプレイする野球少女でした。父は大の野球ファンだったので、2人でときどき球場に行ったことをよく覚えています。今思えば、シャイな人でしたから娘にどうやって愛情を示していいのかわからなかったのでしょう。球場に行くと、売店に並んでいるペナント、ユニホーム、ポップコーン、ホットドッグ、かちわり氷など、私が見たものをすべて買ってくれるんです。ほしいわけじゃないよ、そんなに食べられないよ、と言っても、「大丈夫」と言って、買ってしまう。だから、野球観戦の思い出は、試合そのものよりも「おなかいっぱい」の印象が強いくらいです。
新幹線で甲子園に連れて行ってくれたこともありますよ。そこでも父らしいのは、移動中にずっと本を読んでいるんです。そういうとき、いつもは邪魔をしてはいけないんですけど、観戦後の興奮状態なら、話しかけても許される。幸せな時間でしたね。
私が高校3年生のとき、家庭内には隙間風が吹き始めました。19歳で両親が離婚し、のちにそれぞれ別の人と再婚したんです。もともとお母さんっ子だったことも手伝って、そのころから「母が苦労したのは父のせい」という気持ちが強くなり、父とは疎遠になりました。
30代も半ばに差し掛かったころでしょうか。父からよく電話がかかってくるようになりました。私がシングルマザーでありながら一人で小さな家を建てた時に褒めてくれて、「女性が一人で生きていくのはすごいことだ。がんばったんだね。是非後を継いで、こまつ座にきてほしい」と言うんです。私にはそんな気が全くなかったんですが、父は諦めませんでした。当時働いていた会社にやってきて、「娘を辞めさせてほしい」と社長に直談判したんです。私からしたら迷惑な話ですが、社長にも「一生に一度は、お父さんの言うことを聞くものだよ」なんて言われてしまって。そこまで言うならまずは数年手伝ってみるか、という気持ちでこまつ座に入社したら、父が肺がんで倒れてしまった。それで、後を継いで社長になったんです。
父は闘病中、「伝えておきたいことがある」といって毎晩私に電話をしてきました。「問題を悩みにすり替えるな」「人は誰しも不安の虫を飼っている。それをいかに抑えるかの連続だ」「自分という作品を作っていくつもりで生きろ」。内容は仕事への取り組みかたや、生きかたについてなどさまざまでしたが、あの電話で聞いた話のすべてが糧になっています。
私、なぜか父にはまた必ず会えると信じているんですよ。人生が終わるときに迎えにきてくれるのかもしれないし、それがどんな形かはわからないけれど。そのときに、「よくやったね」と言ってもらえるように、今、こまつ座を一生懸命運営している。娘と父ってそういうものかなと、ふと、そんなことを思うんです。(取材・文/直木詩帆)
※週刊朝日 2018年6月22日号に掲載した記事に加筆