夕焼けに染まるフィレンツェのドゥオーモ(大聖堂)
夕焼けに染まるフィレンツェのドゥオーモ(大聖堂)
留学のチェックリスト20(週刊朝日 2017年12月1日号より)
留学のチェックリスト20(週刊朝日 2017年12月1日号より)

 若いころからの夢を今こそかなえてみたい──長年サラリーマン生活を続けて、定年が見えてきたとき、そんな思いを抱く人は多いのでは? 65歳でリタイア後、憧れの海外生活を留学というかたちで実現した渡邉幹雄さんが、その喜びやハプニングをリポート。まだまだ気力・体力・知的好奇心にあふれるシニアのみなさんも、今から挑戦してみませんか。

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 買い物を済ませ、ふとショルダーバッグを見た私は、血の気がざっと引くのを感じました。ファスナーがあいていたのです。鞄に入れていた財布はなくなっていました──。

 イタリア・フィレンツェへの熟年留学を決めた私たち夫婦。到着して3日目、すべてが順調だと油断していた時に浴びた、手痛い洗礼でした。盗られたのは、数万円分のユーロと、クレジットカード、車の免許証など。すぐに巡回中の警察官を見つけ、署に行って被害届を出しました。が、イタリアではスリは事件の内には入らないらしく、捜査する気配がまったくありません。急ぎ日本のクレジット会社に国際電話してカードの使用を止めてもらいました。盗まれた時に備えて、別のクレジットカードと共に、カードのコピーをアパートに置いてあったのが、せめてもの救いです。以降は、鞄はファスナーは内向きにして斜め掛けにし、南京錠をかけて歩きました。

 世界の歴史や文化に興味を持つ私の夢は「世界を旅する」ことと「外国で暮らす」こと。でも、海外への旅は、出費を考えると年に1回がせいぜい。仮に元気で行けるのが70代前半までだとすると、あと10カ国がせいぜいだろうか──そう考えたのが10年前のこと。ふと「好きな街で暮らし、そこを拠点に近隣の国々を旅する」というアイデアが浮かびました。長期滞在を可能にする有力な方法は「語学学校への留学」です。外国人向けの語学学校に通うなら、入試も年齢制限もなく、熟年でも入学可能。長期滞在に必要なビザが取得できるのです。

 留学先にイタリアを選んだのは、ヨーロッパの中心に位置し、周辺への旅に便利そうだから。イタリアには世界一多くの世界遺産がありますし、イタリア語の発音は“ローマ字読み”で、何とか通じそうだと考えたのも理由のひとつでした。

 早速、イタリア文化会館で学習を開始。週1回のペースで5年間通い、日常会話ができる中級レベルになってからは小さな教室に移って3年間学びました。

 拠点とする街は、イタリア中部で鉄道の便も良い古都・フィレンツェに決定。イタリア語の先生がフィレンツェ出身で、現地の学校を紹介してくれました。

 何はともあれ、夫婦でどのくらいかかるのか試算しました。留学に関する費用としては、学費、アパート代、それに海外傷害保険料、往復の渡航費などが考えられますが、1年間で合計250万円ほど必要だとわかり、一瞬躊躇(ちゅうちょ)しました。

 でも物は考えよう。ヨーロッパを5カ所10カ所と旅行すると考えたら、かなり相殺できます。留学資金には退職金の一部を充てることとし、日本で暮らしてもかかる月々の生活費は、現地からの旅行代を含めて年金の範囲内で賄うことにしました。

 そして、2015年6月、勤めていた職場を65歳で去り、本格的な留学準備に入りました。1年間の留学ビザを取得するには、1年分の授業料と海外傷害保険の支払い、滞在先の確保が必要です。ほかにも日本を長期間離れるための細々とした準備を終えた私たちは、9月1日、フィレンツェへ旅立ちました。

 到着後は早速語学学校で入学手続きを終え、事前に契約しておいたアパートに荷物を入れました。アパートは、市内中心部を流れるアルノ川を渡った下町地区にある4階建てで、私たちの部屋は2階の一画。間取りは1LDKです。ヨーロッパのアパートは、家具から食器に至るまで基本的な物は揃っているので助かります。パソコンもWi-Fiがすぐにつながりました。

 すべてが順調だと思っていた矢先に、大事な財布を盗られたのは、すでに述べた通り。お金だけでなく免許証も失くしたため、当面はレンタカーでの世界遺産巡りをあきらめる羽目になりました。

 お金に関わるトラブルがもうひとつ。外資系銀行のキャッシュカードが、突然、引き出し不能になったのです。一時帰国が近かったので、ひとまず日本の銀行カードでカバーしつつ外資系銀行に問い合わせたところ、知らない町のATMで800(約10万円)ずつ数回引き出されていて、残金がたったの2千円になっていることが判明しました。審査の結果、失った約70万円は戻ってきましたが、誰がどのように口座から盗んだのか、恐ろしいことに未だ不明です。

 イタリアで暮らすには、日本ではありえない、さまざまなトラブルもつきもの。特にフィレンツェのアパートは、古い建物を改築したものが多く、水回りのトラブルがかなり発生します。

 私たちの部屋には台所の流しの上に湯沸かし器があったのですが、ある時いきなり熱湯が水蒸気と共に降ってきました。お湯をシャワー室へと分配する金具の辺りから漏れているようです。慌てて大家に電話で事情を話すと「今シチリアなので、4日後に帰ったら知り合いの職人を呼ぶから待っててくれ」との回答。故障は設備の老朽化によるものだったので、大家が支払いを負担してくれました。でも、修理業者が来るまでの4日間、私たちは洗面所で頭や体を洗う“行水”を強いられたのです。

 語学学校はフィレンツェの中心部から歩いて10分程度。欧米を中心に世界各地から集まった、平均30名前後の生徒たちは、18歳から60代までさまざま。うち日本人は2、3人です。

 授業は月曜から金曜、9時から13時まで休憩を挟んで4時間。私は中級クラスで、テーマを決めて討論したり、雑誌の記事を読んだり、CDの聞き取りをしたりしました。もちろん授業はすべてイタリア語です。

 同じアルファベットを使う欧米人、特にイタリア語と同じラテン系の言語の人々に比べ、日本人、特に熟年世代は悪戦苦闘。私たちもはじめのうちは疲れ果て、授業後はランチを食べてから昼寝タイム!でした。

 私たちが最も悩まされたのは「滞在許可証」の取得です。現地到着後すぐに警察署に出向いて申請。両手の指紋などを採られましたが、3回出頭してもまだもらえません。許可証がないと不法滞在状態になるため、落ち着かない日々を過ごしました。結局、許可証を手にできたのは年が明けた1月の末、申請からおよそ5カ月後のことでした。

 このストレスを避けるため、2年目は許可証の不要な観光ビザに切り替え、日本への帰国と滞在を3カ月ごとに繰り返すことにしました。アパートも学校の紹介で旧市街の外れに移りました。地元民で賑わう古い市場が近くにあり、妻は肉屋、八百屋、乳製品の店などに通い、顔なじみになっていました。

 フィレンツェに滞在した最大のメリットは、祭りや季節を選んで旅ができたこと。ヴェネツィアのカーニバルや、サルデーニャ島の伝統衣装のパレードなど、週末ごとに日帰りや泊まりで旅を楽しみました。ホテルはバス無しシャワーのみの三ツ星ホテルで1泊50~60(6500~8千円)、食事はトラットリア(食堂)という節約旅行です。

 もちろん地元フィレンツェもたっぷり楽しみました。春は伝統衣装の時代行列、まるでラグビーかレスリングのような古式サッカーの大会。夏には野外オペラや花火大会と盛り沢山です。街を流れるアルノ川は四季を通じてさまざまに情景を変えますが、特に夏は下流の川面に夕陽が落ち、空が真っ赤に染まり絶景です!

“外国”への旅も、気楽に、安上がりにできました。たとえばギリシャへの3月の旅は、オフシーズンのため飛行機代が往復1人約2万円。ホテルも50(約6500円)と格安。2年間で旅した国は、スペインやオランダ、ベルギーなど10カ国になりました。

 イタリアでは野菜や果物が豊富で安く、日本以上に四季の変化を楽しめました。春のサクランボやアスパラガス、夏のプラムやスモモ。特に秋のポルチーニ茸をステーキ風に焼いた料理は、オリーブオイルと相まって絶品です。パンやパスタ、ハムやチーズなどの基本食品も日本の半額以下。それを妻が工夫して料理してくれてかなり節約できました。

 イタリア料理が続いても、短い旅行ならまったく気になりませんが、さすがに滞在中は少し和食が恋しくなりました。街には中華食材の店が何軒かあり、少し高めではあるものの、醤油やだしの素、即席麺などの日本食材も手に入ります。寿司レストランも何軒かありますが、多くは中国人経営で味も「?」なので、日本人経営の店を探して時々トンカツやラーメン、お新香に味噌汁などを食べて、お腹と心を癒やしました。

 イタリア人の友人もできました。16年秋にチェコへと向かう機内で知り合った一家。名前はレオナルドで、ヴィンチ村に住んでいるので、現代版「レオナルド・ダ・ヴィンチ」(ヴィンチ村のレオナルド)だと言うではありませんか! 彼は南イタリア出身で、長年教師を勤め、現在は私と同じく年金暮らしとか。メールのやり取りの後、今年5月にヴィンチ村を訪ねて、ビステッカ・アッラ・フィオレンティーナ(骨付きステーキ)やポルチーニ茸のパスタ、庭で取れた果物などをご馳走になりました。彼とは今も交流が続いています。

 もちろん、語学学校でも世界各地の多くの人々と知り合えました。フェイスブックやインスタグラムを通じて、帰国後もお互いの近況を交換しています。

 2年間でかかった費用は、2人でおよそ400万円。イタリアや周辺の国々への旅行は、月々の年金の範囲に何とか収まりました。食費などの生活費が月10万円以内で済んだのが大きかったと思います。けっして安い金額ではありませんが、私たちにとってはとても有意義な経験でした。

 長い人生、60代から70代は、まだまだ体力もあり、自由時間も十分ある「黄金の時代」だと思います。「海外で暮らす」という長年の夢をかなえた私は、少しだけ仕事もしながら、ボランティアやスポーツなどで第二の人生を楽しみたいと思っています。

 まずは2020年の東京オリンピック。英語とイタリア語の観光ボランティアで、優しかったイタリアの人々へ恩返しをするのが、いまの目標です。

週刊朝日  2017年12月1日号