心理学者の小倉千加子氏は、「教育という仕事」が見直されつつあるという。
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秋篠宮佳子さまが進学先に学習院大学文学部教育学科を選んだ時にその傾向は既に広まっていたのである。
教師になるという生き方。
教育学専攻のある大学院では修士課程の男子は博士課程に進学するよりは教員採用試験を突破して、中学・高校の教師の「仕事」を得ようとするものが多い。男子はまず経済的な基盤を作ろうとするので、博士課程に進んで非常勤講師をしながら専任講師になるのを待つという不確実で不安定な生き方は選ばなくなってきている。
大学を出て社会に出て10年近くなってから教師を目指す男性も増えている。教育学科のある短期大学に入り直し、2年で教員免許を取って小学校教員採用試験に合格する男性は最初から明確に「転職のための進学」をしているのである。現在はまだ短大卒で教員になる道が開かれているので、社会人の中で2年間の授業料負担なら何とかなると考える人は真剣に考えて入学してくる。
同じことは女性にも起こっていて、大学を出て非正規労働者としていくつもの仕事を転々とした後、最後の転職の機会として教育学科に再入学する人がいる。教師は地に足がついた職業である。少なくとも、そういう主観がなければその仕事をすることはできない。
子どもに教育をする仕事がそういう安定したものを内包しているのである。経済的な意味での「堅実志向」ではない、もう一つの「堅実志向」は、空虚さが極限までいった時代の先に俟たれるものなのだろう。
希望を持たない人は教師になってはいけないと思う。
同じことは「子どもを産む」ことにも当てはまる。自分の人生に希望を見出せない人は子どもを持ってはいけない。親は自分が持っていないものを子どもに与えることはできないからである。
学校は朝が早いので先生たちも規則正しい生活をしている。子どもを持つと母親の生活も朝が早くなる。朝早くに起きられない者は教師と親にはならない方がいいのである。
教師の対極にある職業はジャーナリストである。夜が遅くて朝早くに起きられないからではない。ジャーナリストの持つ批判精神が教師には不必要だからである。不必要どころか「仕事」に妨害的に働く。
親業でもそうである。教師と親は究極的に「ケアの仕事」であり、ケアの反対が批判精神だからである。人の中には、子どもや老人の排泄の世話が絶対にできない人がいる。そういう「仕事」が生理的に受け入れられないのである。観念の世界にしかいられず、実在の世界には所属できない。
もう一つ、教師と対極にある職業がある。
スーパーの店長である。教師が職人であるのに対し、店長はあらゆる仕事を一人でこなす人である。営業、事務、接客、経理、労務。自分の適性など言っていられない。レジを閉めた後にお金の計算をして、店に鍵を掛け、食事を終えて帰宅すれば午前2時である(郵便局の局長は午後11時に帰れる)。女性が店長であれば、子どもを育てることができないだろう。男性の店長であっても、起きている子どもの顔は見られないであろう。
教師は子どもと一緒に過ごすために、基本的には一日を「子どもの時間」で過ごすことができる。子どもの健康を守るのが学校だから、結果的には教師の健康も守られている。
何より、「教育という仕事」の価値が見直されつつあるのだろう。機械に任すことのできない仕事、クリエイティブな仕事、究極の人間性の仕事である。
※週刊朝日 2014年1月24日号