●「七つ前は神のうち」の勘違い

 ちなみに「七つ前は神のうち」というフレーズがあるが、これは明治から昭和にかけて活躍した民俗学者・柳田国男氏の言葉らしい。いつの間にか、これが古代からの観念のように語られているが、実際は古来ある「服忌(ぶっき)」における慣習によるところが大きい。実は上記の徳松は5歳で早世した。没した翌年、綱吉は服忌令を定めている。例えば、父母が亡くなった時は忌が50日、服が13カ月と定められ、50日間は出仕(勤めに出ること)ができず、13カ月は祭り事や神事などには参加できないというルールを明文化したのである。古代からあったこの服忌の考え方を、武家社会ではじめて法令としてお上が定めたのである。

 服忌令では、服喪の範囲と期間が定められ、慣例であった7歳未満と老人(時代によってさまざまな年齢に)を除くことも制定された。成年に比べて死が身近であった幼児と老人を含むすべての人に上記ルールが当てはめられた場合、人は常に服喪期間となる可能性があり、それを避けるための知恵である。これが現在では「七つになる前の子が神に召されても仕方がない」という意味へと転じてしまったようだ。

 徳松が亡くなったことで、綱吉が仕事を控えなくてはならないことになっては一大事である。なにしろ「生類憐れみの令」の生みの親だ。明文化した理由も、長男の服忌を慣習だけで無視することが憚られたからかもしれない。

 かくして、子どもの厄よけと成長祝いの行事は全国的に広まっていった。もっとも七五三という名前で呼ばれるようになったのは明治時代で、江戸時代には「祝児詣(いわいごもうで)」などと呼ばれていたようだ。これに目をつけた商売人たちが、寺社の境内近くで飴を売り始めた。浅草の飴売り七兵衛が紙袋に「千年飴」と記して売り始めたのが最初だとか、大阪の商人が江戸で売ったのが始まりだとか、千歳飴の始まりは神田明神だとか各種の話がある。いずれも、めでたい色を合わせた紅白飴で、外袋に鶴亀、松竹梅の縁起物が描かれ、やがては寺社からの縁起物として扱われるようになった。今では、千歳飴は食品売り場の季節グッズに、また神社仏閣では個性豊かな「七五三詣」の授与品が用意されるようになっている。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)

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