10月22日に亡くなった、緒方貞子さん。緒方さんを何度も取材した朝日新聞記者の石合力が、緒方さんの著書『私の仕事』(朝日文庫)の巻末解説で明かした、緒方貞子さんの素顔とは? その一部を紹介する。
【1994年4月、1日で25万人の難民がルワンダからタンザニアに逃れた…写真はこちら】
※「【追悼・緒方貞子さん】その実像と凄みを長年取材した記者が明かす」よりつづく
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■米国が育んだ国際感覚
緒方さんが持つ、豊かでバランスのとれた国際感覚は、幼少期からかかわりの深い米国を抜きには語れない。
最初にサンフランシスコに渡ったのが3歳になる直前の1930年夏。その後、オレゴン州ポートランドに移ってから、多様で自由な教育方針を持つ私立の小学校に入る。英語の勉強は、その後、父の転勤で中国に行ってからも続いた。
「日系2世のような人が家庭教師、子どもの世話役として一緒に来て、本を読むなど英語の勉強はずっと続けていました。やっぱり英語を知らないといけないと親が強く思っていたのですね」
その後、米国の首都ワシントンのジョージタウン大・大学院に進んだ。博士課程では西海岸カリフォルニア大学のバークリー校へ。著名なアジア研究者、政治学者のロバート・スカラピーノ教授のもとで学び、政治学博士号を取った。
当時を振り返り、「学問するのはああいうところ(バークリー校)かなと。学術的に優れた先生がいくらでもいる。考えてみれば、そこに最初に行っていたら埋もれちゃったかもしれないと思いました」と語る。
ワシントンについて「議会と政府の特殊な政治(ポリティクス)を見る場所ですね。こまかなことはいくらでもわかる」とした上で「世界全体を見るのはニューヨークですね。国連があるからだけではなく、人間は経済と一緒に動くものです」と話す。
ワシントンには、日本の「永田町」に当たる「インサイド・ベルトウェー」という言葉がある。米政界のインナーサークルに、緒方さんほど深く入り込んだ日本人はそういない。その緒方さんが、ワシントンからだけでは必ずしも世界は見えないと語るのだ。ワシントン、ニューヨークの国連本部、そして紛争地の現場に足を運んできた緒方さんならではの含蓄ある見方だろう。