鎌倉時代になると、風神雷神図が有名な京都の「建仁寺」を源頼家が、鎌倉五山の筆頭「建長寺」を鎌倉執権・北条時頼が建立したが、いずれも今もよく知られたお寺として存在感を示している。
さて、源頼朝が征夷大将軍となったのは建久3(1192)年。頼朝が挙兵前に隠棲していた伊豆の正確な場所の記録がないため関係性はまったく不明だが、伊豆・賀茂郡に「建久寺」という無住寺がある。寺のある一帯の地名も「建久寺」という。すでに戦国時代に寺の伽藍を焼失してしまっているため、寺や地名の縁起がわからないことは残念ではあるが、鎌倉幕府の開府から頼朝の死去に至る10年間の元号「建久」を冠する寺名が、伊豆の奥地に残っていることは何やら意味深い。
●江戸時代には徳川幕府も元号寺を建立
江戸時代の元号を冠したお寺と言えば、現在も上野公園一帯に鎮座する「寛永寺」だろう。徳川家康と参謀・天海は、京の町を模した江戸の町を作るにあたり、比叡山延暦寺に相当するお寺が必要だった。このため、江戸城の鬼門・北東の位置に寺を建立するのである。比叡山に倣い東の比叡山を意味した「東叡山」、元号を冠した延暦寺に倣い「寛永寺」と名付けられた。明治維新に際し、江戸御府内で唯一血の流れた場所が寛永寺であり、残念ながらこの時伽藍のほとんどを焼失してしまった。現在残る根本中堂は川越からの移設であるし、不忍池に浮かぶように建つ弁天堂は東京の空襲でも焼け落ちてしまったのちの再建堂である。だが、弁天堂から見上げることのできる観音堂やお顔だけになってしまった上野大仏は、江戸・寛永時代の姿を今に残している。
こうして整理してみると、元号を冠した寺社が時代の朝廷・幕府のあった場所に象徴のように残っているのがわかってなかなか面白い。すでにわれわれが記録する前に失われてしまった社もあるのだろうが、「大化」以降の1400年弱の間、元号は常に歴史を刻む人々の中にあったのだなぁと改めて思う。
のちの時代に、過去の元号を名付けている寺社が出て、複数同名の寺社が存在することとなった元号もあるが、それが許される時代となったこともまた歴史の1ページとして残すべきことなのだろうと思う。