月間売上1000万円超から1日12杯に… 幡ヶ谷のラーメン店主が“家系”への執着を捨てた日 (2/5) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

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月間売上1000万円超から1日12杯に… 幡ヶ谷のラーメン店主が“家系”への執着を捨てた日

連載「ラーメン名店クロニクル」

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生姜醤油専門 我武者羅 代々木店/東京都渋谷区千駄ヶ谷5-29-27/11:00~15:00、18:00~22:00営業/年中無休/筆者撮影

生姜醤油専門 我武者羅 代々木店/東京都渋谷区千駄ヶ谷5-29-27/11:00~15:00、18:00~22:00営業/年中無休/筆者撮影

 幡ヶ谷にある新潟ラーメン専門の「我武者羅(がむしゃら)」は、都内で新潟のご当地ラーメンが食べられるお店として人気を集めている。店主の蓮沼司(48)さんは長岡の近くにある見附市出身で、幡ヶ谷本店の他に、代々木に支店、さらに幡ヶ谷に別ブランド「心や」を展開している。

 蓮沼さんの育った長岡は中越地区で、新潟市とは少し離れたエリア。新潟の歴史ある5大ラーメンのなかでも、長岡は「生姜醤油ラーメン」(しょうがしょうゆらーめん)で有名だ。

 生姜を効かせることで、スープに使う豚の臭みが消え、コクを残しながらスッキリした味わいになる。スープの醤油が濃口で、チャーシューをたっぷり乗せるお店も多いが、生姜の効果でさっぱりと食べられるのが特徴だ。また、寒い地方ということもあり、体が冷えないように醤油ラーメンに生姜を入れたとも言われている。

 蓮沼さんにとっての「ラーメン」はこの生姜醤油ラーメンのことだった。特によく通っていたのが、駅前にあった「とうちゃんラーメン」。蓮沼さんの原点の味だという。

 料理上手な母親に育てられた蓮沼さんは、幼い頃からキッチンで料理する母の姿を見ることが好きだった。幼稚園の卒園アルバムには、将来の夢を「コックさん」と書いた。中学生の頃には、自分で作った料理を人に振る舞うこともあった。だが、高校進学後、素行の悪さから学校を退学になる。夜間の定時制高校に通ったが、将来が見えなかった。

 そこで、幼いころの夢に立ち戻り、昼間の空いた時間に調理師学校に通い始める。結局、定時制高校は退学になってしまったが、調理師学校には通い続けた。この学校でたまたま一緒になったのが、のちにラーメン界の革命児と呼ばれ、「けいすけ」グループを率いる竹田敬介(50)さんだった。2人は「とうちゃんラーメン」をソウルフードのように食べながら、学校に通った。

 だが、“悪友”の2人は何かと問題を起こしてしまい、ついに退学寸前に。そのとき、先生から視聴覚室で見せられた映像で、2人の人生は一変する。四ツ谷にあるフレンチの名店「オテル・ドゥ・ミクニ」の三國清三シェフを追った、2時間のドキュメンタリーだった。

「フレンチしかない!」

 2人は人が変わったかのように料理を学び、卒業して上京する。17歳だった。

 88年、蓮沼さんは洋食店に就職し、ステーキやハンバーグ、パスタなどの料理を学んだ。1年ほど働いたが、さらに勉強を深めたいと退職を決意。その後、ホテルで修業していた竹田さんの紹介で、ホテルシェフの世界に飛び込んだ。

 ホテルの各セクションを渡り歩き、ホテル料理をひと通り学んだ。将来を期待されていたが、自分の料理を作りたい思いが強まり、3年半で退職。フランスの名店「Lucas Carton」の料理をどうしても食べてみたいと、借金をしてまで訪れ、現地の食べ歩きや知人の店の手伝いをし、知見を深めた。

 帰国後、竹田さんと2人で渋谷の松濤にあるレストランのシェフをやらないかと誘いを受け、わずか22歳でチーフシェフになる。夜遅くまで料理について語り合い、切磋琢磨した。売り上げも上々で、田園調布にもお店はできたが、バブル崩壊と同時にオーナーがお店を続けられなくなってしまう。



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