「長岡の生姜醤油ラーメンを自分の手で東京に根付かせたい」と店主の蓮沼司さん(筆者撮影)
「長岡の生姜醤油ラーメンを自分の手で東京に根付かせたい」と店主の蓮沼司さん(筆者撮影)

 蓮沼さんは一心不乱にフレンチを極めてきたが、飲食業の厳しさを痛感した。日本人が大好きな食べ物であれば景気に左右されにくいかもしれないと考え、浮かんだのは寿司、焼肉、ラーメンだった。だが、寿司はまた1から修行をする必要が出てくる、焼肉は原価が高い。ではラーメンはどうか。フレンチの技法を応用してラーメンを作れば面白いかもしれない。蓮沼さんの目標が少しずつ固まり始めた。

 独立するには経営の勉強が必要だと考え、94年、蓮沼さんは弁当チェーン「ほっかほっか亭」のFCオーナーになる。当時、神奈川事業本部の最年少オーナーとして、横浜西口にお店を持った。お店づくりや売り上げの伸ばし方、経営手法などを学び、エリアでの伸び率は1位。だが、ここで悲劇が起こる。バイク事故に遭ったのだ。

「もう辞めろ、という声が聞こえたんです。人生は一度きりしかない。本当はラーメン屋をやりたいんだから、そこに向かうしかないと思いました」(蓮沼さん)

 当時、2店舗を経営していたが、1年半でお店を売却することになった。

 その後、95年に、古い付き合いの精肉店の社長から、社長が経営するラーメン店を会社ごと任せたいと声がかかった。ラーメン店で独立する前に、雇われ社長としてお店を持てるのは嬉しいことだった。こうして横浜・中山にある横浜家系ラーメン店を引き継ぐことになった。

 当時の横浜は家系ラーメンの独り勝ち状態。だが、蓮沼さんの店は魚介を使うなどオリジナリティを追求し、人気を集めた。当初、月300万円だった売り上げは、10カ月で1000万円に。東京・多摩市の永山、十日市場、相模原にも展開し、各店の平均売り上げは月間1200~1300万円にまで成長した。9年間勤め上げ、ついに独立を許される。上京から16年が経ち、33歳になっていた。

 こうして2005年4月、幡ヶ谷に蓮沼さんのお店「どっかん」がオープンした。カウンター9席の小さなお店だったが、念願の独立。味は以前から大好評だった家系ラーメンで勝負したが、結果は散々だった。

 横浜では受け入れられた味が、東京では流行らない。東京のレベルの高さをまざまざと思い知った。朝8時には店に入り、夜中2時まで一人で切り盛りしたが、1日12杯しか売れない日もあった。売れない、休めないの悪循環で、お店の近くに単身でワンルームアパートを借り、やりくりしようとした。

 だがその年末、蓮沼さんは心身ともに限界に達してしまう。タレやスープを全て床にぶち撒けてしまった。

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消えた家系への執着