だがその野口も、東京五輪2020の新種目にスポーツクライミングが追加されると、練習場所の少なさにため息を漏らすようになっていた。

 スポーツクライミングが五輪種目に採用されたのは16年夏。それまでこの競技は、ロープをつけてどこまで高く登れたかを争う「リード」、制限時間内に複数のコースを幾つ登れたかを競う「ボルダリング」、そして15メートルほどの壁を何秒で登れたかを争う「スピード」の3種目に分かれ、それぞれが別の大会として開催されてきた。だが東京五輪から3種目総合のコンバインド(複合)競技になり、リード、ボルダリング、スピードの成績の掛け算で順位が争われることになった。数字が少ないほど上位になる。

 ここ数年、日本でもボルダリング人気に火がつき、ボルダリングジムは全国各地に増えたが、高さが必要なリード、スピードの練習ができる施設は数えるほどしかなかった。その貴重な施設も普段は一般開放されているため、野口ら選手たちの練習時間は極端に限られた。このままでは海外勢に後れを取ってしまう──野口は焦っていた。

 野口は、身体のチェスと言われ、身体能力の高さと共に瞬間的な判断力が必要とされるボルダリングには絶対的な自信があったが、リードでの優勝の経験は少なく、ましてやスピードはほとんど取り組んだことがなかった。
 東京五輪でメダルを取るには、練習場所の確保が絶対必要な条件だった。

 そんな野口の切なる思いが、遂に周りを動かした。野口や男子金メダル候補の楢崎智亜(24)など日本代表チームのメンバー5人が所属する「TEAM au」をサポートするKDDIが資金援助をし、野口の実家の敷地内にボルダリング、リード、スピードの練習場をこの夏完成させた。土地を提供し、土台や壁を造成したのは父・健司(56)だった。

 野口の笑みが続く。

「国際標準の施設です。TEAM au専用の練習場だから他のお客さんに気を使わなくていいし、屋根もついているので天候にも左右されない。新型コロナ禍でも通常通り練習ができています」

 施設内に入ると、空間に聳える壁の高さと傾斜角の鋭さに、足が竦んでしまいそうだった。高さ15メートル、幅11・4メートル、最大傾斜135度のリード壁は、下から見上げると岩が迫ってくるような錯覚に陥る。スパイダーマンでさえ登るのが難儀なような壁に、野口はダンスでもするようにするする登っていく。

 リード壁の向かいに、2人が同時に登れる高さ15メートルのスピード壁、その手前には幅15メートルの壁に多様な形状を施したボルダリング壁が設置された。

 農業用倉庫をつぶして練習場の建物を作った健司が苦笑い。

「娘にしてやられた感じです。こういう施設があったら……と聞かされているうち、あれよあれよという間にこんなことに」

 野口の五輪に懸ける熱意と覚悟が、どれだけ熱を帯びていたかが分かる。

(文・吉井妙子)                                                 

※記事の続きは「AERA 2020年11月2日号」でご覧いただけます。