「ただ、目が見えなかったので書くのに苦労したようです。それで看守がノートを広げてくれて、書く場所を教えてくれたと言っていました。その文面からは、明らかに動揺のあとが見て取れました」

 弁護団も「取引などありえない」と、黙秘をアドバイスした。その後、松本被告は黙秘に転じた。

「目が見えない、と言えばこんなこともありました。警視庁の接見室で彼と会っているとき、突然電気が消えて、真っ暗になったんです。部屋の外も停電しており、完全な暗闇です。その状態が20秒ぐらい続いたでしょうか。彼はその間、何も気づかずに話し続けていました。目が見えないというのは本当なんだと知りましたね」

 破防法適用をめぐる公安調査庁と教団の攻防が激しさを増していた95年暮れから96年。松本被告が弁護人を通じて教団に「獄中指令」で徹底抗戦を命じた、と報道されたことがあった。

「私がやったことは、教団から彼への質問を預かり、接見室で私が読み上げ、彼がちょっと考え、回答する。それを私が一字一句書きとめて持ち帰り、教団側に伝えるということでした。破防法への対応については、抵抗ではなく、破防法にふれないような団体になることを指示したのであって、もしも教団が解散になった後は数人ずつのグループで生活し、1人が月に10万円ずつ稼げば生計がたてられる、と彼は答えていました。ほかに修行の相談、病気結婚の悩みなど、さまざまでした」

●対決後「ぐちゃぐちゃ」

 弁護人が松本被告と意思疎通ができたのは97年初めごろまでだった。異変が起きたのは、96年9月、松本被告の側近中の側近だった井上嘉浩被告との「師弟対決」だった。

 検察側証人として出廷した井上被告は、地下鉄サリン事件の直前、教団本部に帰るリムジンの車中で、松本被告が故・村井秀夫幹部らにサリンの製造と散布を指示したと証言。この「リムジン謀議」は、教祖の地下鉄サリン事件への関与を決定づける証言だとされた。

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井上被告の反対尋問を止めようとした松本被告