言葉を与えられている動物は人間だけです。言葉を与えることによって、賢くも悪くもなるようになっているように思います。そこが動物とは違います。動物は言葉がないために、賢くも悪くもなりません。犯罪もしないけれど悟りもしません。縁側で一日中、丸くなっている猫は、人間に対して、その存在で何かを批評しているように思います。「人間も私たちのように、特別、役に立つようなことをしなくても、こうしてジッとしていれば特別の悩みも苦しみも悲しみもない、口が災いを犯して、面倒臭い人生を送ることもないのに」とその姿を借りて、われわれにメッセージを送っているような気がしないでもないです。それもこれも、人間が口から言葉を発し続けるせいで、本来は悩みも苦しみもないはずの人生が「こうなってしまった」のです。
猫は鳴かないために、黙って静かな人生を送っています。でも飼い猫になって人間と同居することになった猫は野良猫に比べれば、ニャーニャー鳴きます。何かを要求しているんだと思います。人間社会に片足を突っ込んでしまった飼い猫は、一歩人間に近づいたんです。それはいいことか悪いことかは猫に聞いてみないとわかりません。
猫は犬のように人の顔を見て行動はしません。人のことなど無視して、自分勝手、わがままです。もし人間がこのまま猫になってしまうと、社会生活ができません。人間はなんだかんだ言っても妥協しながら生きています。その点、猫は決して妥協を許しません。生まれながらの芸術家です。芸術というのは無用の長物で役に立ちません。役に立ったら、その瞬間から芸術は芸術でなくなります。
人間は役に立つ存在ですが、猫はその点役に立たない存在です。そんな役に立たない存在の猫が人に愛されるのも、人間はどこかで役に立たない存在でありたいと思っているからではないでしょうか。役に立つということは多くの社会的条件に縛られていることです。役に立たないということは自由であるということです。猫はそーいう意味で役に立ちません。人間に代わって働いたり稼いだりしてくれません。ただ黙って役に立たない存在であろうとするだけです。
そんな猫に人間はもしかしたら人間の本来の自由意思を見ているのかも知れません。鮎川さんが「猫は鳴きますか?」なんて変なお題を与えて下さったせいで、しゃべらなくてもいいことをしゃべってしまいました。言葉は人間の自由を呪縛します。誰ですか言葉は「自由」だと言った人は?
横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰
※週刊朝日 2023年3月31日号