養老:川村教授のようなご意見も、当然出てくるでしょう。「コロナの認識論」でも書いたのですが、「わかる」ということは面倒くさいことで、わかることによってわからないことが増えてしまうんです。ウイルスがいい例です。小さいウイルスの構造がわかるとしたら、同じレベルで人間がわかるのか、ということにつながってくる。

 かつて成人T細胞白血病(ATL)を引き起こすウイルスの構造がわかったときに学会で聞いていたのですが、次に考えることは何かといったら、このウイルスが人の細胞のどこに入るかということだと。染色体のどの部分に入るのか。でも、それを調べるためには、当時はまだわかっていなかった人のゲノムを全部読まなければならなくなります。つまりウイルスの構造がわかったぶん、わからないことが増えた、ということです。

小堀:コロナウイルスの写真と、アナウンサーが同じサイズで映ることへの疑問につながるわけですね。

養老:そうです。学問というのは結局、頭でやっていることです。つまり意識で学問している。ところが、その意識そのものには定義すらない。エネルギーなのか熱なのか何なのか、よくわかっていないんです。AIなんて論理の産物ですから、意識がつくった最たるものです。それをどこまで信用していいのか。

 僕はその辺りの根本が非常に怪しい、と思っている。そもそも意識なんて簡単になくなるんです。1日1回、誰でも寝るときには意識をなくしている。意識の定義すらないのに「コンピューターは意識を持つか」という議論がある。そんな部分が今の科学で気になるところですね。

小堀:ITの進歩で言えば、コロナでオンライン診療なんてものが話題になりましたが、私は使っていません。私が行っていることは、そういうものから最も遠くにある医療だ、と思っています。

養老:僕がまだインターンのときの話ですが、内科の先生が当時のコンピューターで診断機械をつくっていたんです。それから半世紀たって、そういうものは格段に進歩しましたけど、医者は使ってないですよ。小堀先生のように、医者はそういうものを使うことに抵抗してきたと思うんです。

>>【後編/今考える「理想の最期」 小堀鴎一郎×養老孟司「コロナ時代の死に方」】へ続く

(本誌・鈴木裕也)

週刊朝日  2020年8月14日‐21日合併号より抜粋